連載小説「潮風の行方」第三章 海洋歴史ロマン 5話
「今日はあまり、元気がないのね」
昼休み、春菜さんが声を掛けてくれた。
昼休みは、俺も職員達と一緒に、ケアワーカールームの奥の職員休憩室で休む。俺は窓の外を、生気の無い顔で眺めていた。午前中に降り出した雨が、窓を水玉模様に濡らしていた。休憩室は三階にあるが、ロの字の回廊型の建物の内側向きにあるから、ロビーとは違って窓の外には狭い中庭しか見えない。中庭に植えられた棕櫚や椰子などの観葉植物類が雨に葉を濡らし、秋と言う季節が嘘のように緑を映えさせ、熱帯雨林のように霧を漂わせていた。
「そうですか? すみません・・・」
春菜さんに声を掛けてもらったのは、すごく嬉しかった。だけど寝不足と早朝からの波との格闘で、疲れきっていた。しかも完全な玉砕に、消沈している。午前中の相変わらずの戦場のような業務も相まって、とても元気など出る状態じゃない。せっかく声を掛けてもらえたのに、何だかものすごく嫌な返答をしちまったと思って、そんな自分に、ますます嫌気がさす。
「イタコノリは、どうだったの?」
普通なら、今の俺にとって一番応える質問だった。だけど春菜さんは消沈する俺の気持ちを察してか、とろけるような優しい笑顔で覗き込んで、まるで傷を癒すような柔らかい言い方で、そう訊いて来た。
その心地よい声色に、俺はもう泣き出して甘えてしまいたいくらいの情けない気持ちになったが、一応男として平静を装って、答えた。
「はい・・・ 昨日帰ってから、すぐに調べてみました。そしたら・・・」
ネットで調べた内容や、偶然にもばあちゃんが持っていて、今朝挑戦してダメだった話しまで、一気に、吐き出すように話した。春菜さんは、時々興味深そうに相槌を打ったり、「へぇ~、そうなんだ!」と驚きの表情を見せたりして、熱心に聞いてくれた。
しかし俺が全部話し終えたとき、春菜さんは何か含みのありそうな笑顔を見せると、上目遣いに俺を見て言った。
「だけど藤原くん、あなた、ボディボードをやったこと、ある?」
その質問に、固まった。
「え? ないですけど・・・」
すると春菜さんはあきれたように体を起こすと、「あ~、もしかしたら藤原くん、自分がサーフィンやるからって、小さな板でも簡単に波に乗れると思ったの?」と言って腕を組んだ。
春菜さんの意外なリアクションと続けざまの質問に、返事が出ない。
「板が小さければ小さいほど浮力が無いし、波を掴むのは難しいのよ。テイクオフに、大きなサーフボードとは違う、ちょっとしたコツがいるの」
素人では絶対に言えないはずのその言葉達に、あんぐりと口を開けた。
「・・・春菜さんって、もしかしたら、ボディボードやるんですか?」
すると春菜さんは、少し照れ臭そうにはにかんで「エヘ」っと笑うと、ほんのり顔を赤らめて遠慮がちに言った。
「ちょっと前に、流行ったときあったでしょ? あの時からやってたの。最近はぜんぜん入ってないけど、あの頃は大会にも出たりして、結構夢中になってたのよ」
驚いた。やっていただけでなく、大会にも出ていたなんて。
「すごい! すごいじゃないですか!」
思わず、大声で言って立ち上がった。俺などサーファー気取りで話ばかりは偉そうにするが、大会など一度も出たことが無いし、出たこと無いどころか、出る資格すら無いくらいにヘタッピなのだ。
俺があんまり大袈裟に驚いたもんだから、春菜さんはますます恥かしそうにもじもじして、その恥かしい赤い顔を隠すように俯き加減で、上目遣いに言った。
「小さい板を甘く見ていたこと、反省する? 反省するなら、私が試してあげても、いいわよ」
わざと強がった言い方をしたあと、すぐにはにかんだ笑顔になって「なんてね。偉そうな言い方して、ごめんなさい。なんだかとても面白そうだから、もし良かったら、私にも挑戦させてくれない?」と言った。
驚いた。春菜さんが、こんなことに興味を示してくれた。嬉しかった。思わず、飛び上がった。
「もちろんです! ぜひ、お願いします!」
「ありがとう。嬉しい」
花のような笑顔で、そう言った。「ありがとう」なんて言ってもらえるなんて、とんでもない。俺のほうこそ、心臓が踊りだして口から勝手に出て行っちまうかと思うほど嬉しかった。根拠は無いが、何だか春菜さんなら、板子に乗れるような気がした。既に軽々乗りこなしている春菜さんの姿が、脳裏にチラついた。もがき苦しんで抜け出せない闇の中から、女神が手を差し伸べて助けてくれたような気持ちだった。
それに何より、春菜さんが俺と同じことに興味を持ってくれたことが、本当に嬉しかった。
「藤原君は、今週の土曜日はお休み? その日私は早番で、夕方の四時には勤務が終わるから、七里ガ浜なら、ぎりぎり暗くなる前に入れると思うけど」
早速の春菜さんの具体的な提案に、浮かれた声で答えた。
「はい、実習は土曜日は休みだから、大丈夫です」
「じゃあ、七里ガ浜駐車場のファーストフードのお店の前に、四時半に待ち合わせしましょう。天気にもよるけど、夕方ならいい波、来てるんじゃない?」
至極の笑顔でそう言った瞬間、昼休みの終了を知らせる音楽が流れた。春菜さんは立ち上がりながら「今度の土曜日、四時半に下の駐車場で」と確認するように言うと、休憩室の出口に向かって歩き出した。
「春菜さん! 俺、ケアプラン、工藤さんに決めました!」
呼び止めるように、大きな声でそう言った。突然の言葉に、春菜さんは驚いたように振り向いた。
「え?」
訊き返されて、一瞬と惑ったが、素直に答えた。
「まだ、川島さんには言ってないけど、今、決めました」
そう、俺はなぜか、その時突然決断した。自分でも良く分からない。だけど春菜さんの後姿を見た瞬間に、ひらめくように思い付いたんだ。
「そう。川島さんも賛成してくれると、いいわね」
見返り美人の、魅惑の肩でそう応えた。
「今日中に、川島さんに言おうと思います。工藤さんに決まったら、よろしくお願いします」
そう言って、堅っ苦しく頭を下げた。
春菜さんはそんな不器用な俺の姿に一度クスッと笑うと、今度は真っ直ぐ向き直って、満面の笑みで答えた。
「はい、こちらこそ、よろしくお願いします」
その優しい声が、胸の奥に染み込んだ。午前中のダルさが、いっぺんに吹き飛んだ。憂鬱な秋雨すら、さわやかな春雨に感じた。
春菜さんと海に出られる事になったからか? それとも今度こそ、「板子乗り」が実証出来そうに感じたからか? とにかく俺は、次の土曜日が待ち遠しくて、それから毎日が浮き足立ち、まるでスキップでもしそうな勢いで実習をしたのは、言うまでも無い。