連載小説「潮風の行方」第四章 波乗りの想い 2話
待ち合わせ時間ちょっと前に、海から上がった。
砂浜を少し歩き、ファーストフード店に一番近い階段から、駐車場へと上がって行った。しかし登りきったとたん、驚いた。
目の前に、既にウェットスーツに身を包み、脇にボディボードを抱え、手に脚用のフィンを持って立つ、春菜さんがいた。
春菜さんは俺に気付くと、軽く手を振った。
「こっちで着替えたりするの面倒だったし、土曜日だから車停められないとまずいと思って、施設の更衣室で着替えて、歩いて来ちゃった。帰りも施設のシャワー室借りればいいし、そのほうが楽でしょ?」
そう言って、にっこり笑った。
それにしても、なんてかわいいんだ・・・
普段は見ることの出来ない、春菜さんの姿。肌にぴったりとフィットしたウェットスーツ。その黒い半光沢のアウトラインが、春菜さんの身体を忠実に模る。バクバクと荒ぶる心臓が、口から飛び出そうだ。
「三年ぶりにこのウェット着たけど、ピッタリよ。太っていない証拠でしょ? どお?」
そう言って、頭の後ろと腰に手をやって、セクシーポーズをとって見せた。俺はもう、気絶してしまいそうだ・・・
「早かったですね」
辛うじて平静を装って言った俺に、春菜さんは笑顔で答えた。
「工藤さんに、感謝しなさい」
「え? どうしてですか?」
「私が『今日、これから波乗りに行くんですよ』って言ったら、ロビーの夕食準備を手伝ってくれたのよ」
「手伝うって、工藤さんが何を手伝ってくれたんですか?」
目を丸くして問うた俺に、春菜さんは得意気に腕を組んで答えた。
「トレーにまとめて入って来るスプーンやお箸を、籠に小分けして各テーブルに配るでしょ? たまたまそれらを一式工藤さんの前のテーブルに置いてたら、気が付いたら小分けをやってくれたの。優しいでしょ?」
驚いて、「すごい! すごいですね!」と身を乗り出した。
「みんな『工藤さんは怖い』って言うけど、親切にこんな事もしてくださるんだからね。分かった? ちゃんと『工藤さん』という人を、理解してね」
そう言って、おどけた笑顔を作った。
工藤さんとこんなふうにコミュニケーションをとるのは、やはり春菜さんだけだ。
ほとんどの職員は工藤さんを怖がっているし、認知症だと思っているから、話し掛けもしないし、少ない言葉に耳も傾けない。それどころか、拒否をされて業務が滞るのを面倒臭がって、必要な介助すら敬遠する。
それなのに、こんな関わり方を普通にやってしまう春菜さんは、俺は本当に素晴らしい人だと思った。
「俺、車に板子を取りに行って来ますので、待っててもらっていいですか?」
待ち合わせ場所と車を停めた場所は、結構離れていた。
「ええ、いいわよ。だけどどうしよう、何だかドキドキする・・・」
春菜さんはふざけて、緊張したような仕草をする。
「大丈夫、ただの小汚い板切れですよ」
俺も軽くそう返してから、走り出した。
「自分の板で、少し肩慣らしをしているね! 何しろ私も、すごく久しぶりだから」
走り出した俺の背中に向かって、春菜さんがそう叫んだ。俺は走りながら振り返って、「はい!」と答えた。
夕方になって、やはり風がだいぶ出てきた。雲も増えてきたが、雨にはならなそうだ。しかし暗くなるのは、早まってしまうだろう。波は大きさを保ったまま、良い感じに掘れてきた。
戻ると、春菜さんが海に入っているのが見えた。俺は階段を速足で降りて、砂浜に出た。
それにしても、春菜さんは、確かにすごい・・・ 何本か並みの波に普通に乗っていたかと思ったら、今度は深く掘れた上波を捕まえると、一気に横に滑ってスピードを付けて、リップ(波の巻き始め)を使って横向きに回転したりする。俺はあまりボディボードを知らないが、こんな技、見たことも無い。
春菜さんはそんな調子でしばらく波に乗っていたが、浜で見とれる俺に気が付いて、手を振った。そして適当な波に真っ直ぐ乗って、こちらに向かって帰ってきた。
浜に上がると、両足に付けたフィンが歩きにくそうに、ぴたぴたと蟹股で歩いて近付いて来る。アヒルが歩いているみたいで、かわいい。
「今日の波は最高ね! 久しぶりなのに、張り切っちゃった!」
戻ってくるなり、満面の笑みでそう言った。
「凄いですね! 俺、あんなの初めて見ました!」
春菜さんは恥かしそうにはにかんで「そお? ありがとう・・・」と顔を赤らめた。褒められるのが、本当に苦手みたいだ。
だけどすぐに表情を戻して、俺が手にぶら下げている板子を見た。
「それね、板子って」
「はい」と言って、目の高さまで持ち上げた。
「本当に、ただの板切れなのね・・・」
「そうなんです。持ってみてください」
差し出すと、春菜さんは少し緊張したような表情で受け取った。
「凄い・・・ 思ったより、重いのね」
「はい、だから本当に、浮力がありません。きっと体重を預けちゃ、いけないんだと思います。板に『乗る』んじゃなくて、多分、何も板を使わずに波に乗る、ボディサーフィンに近い感覚で行くんだと思います。言うのは、簡単ですけど・・・」
「そうね・・・」
「春菜さんは、ボディサーフィンやったこと、ありますか?」
「あるわけ無いじゃない」
「そうですよね。普通、無いですよね。当然、俺も無いです・・・」
ボディサーフィンとは、ライフセーバーなど、海に精通した物だけが行う、道具を一切使わずに、自分の身体だけで波に乗る、高度な波乗りなのだ。
思わず、二人で沈黙してしまった。
「とにかく、『百聞は一見に如かず』よ。私、乗ってみるわ」
不安を笑顔で振り払うようにそう言うと、春菜さんは板子に括り付けられたリーシュコードを自分の腕に巻いた。そしてしゃがみこんだかと思うと、付けていた両足のフィンを脱ぎ始めた。
「フィンは付けないで行くんですか?」
「当たり前じゃない。板子乗りは、フィンなんか使わなかったでしょ? 当時のままの条件で乗らなければ、意味が無いでしょ?」
確かに、その通りだった。しかしただでさえ浮力が無いところに、キックで推力を得るフィンも無いとなると、現実的には厳しいように思えてならない。決して春菜さんを信じていないわけではないが、あの板子の難しさを一度でも経験している俺にとっては、やはり拠り所に欠けるように思うのだ。
春菜さんは裸足になって、海に向かって走り出した。そして「きゃ~! 冷たい!」と悲鳴に近い声を出しながらも、ザバザバと海に入っていった。
海に入ると、やはり、沖に出るのに苦労している。しかもこの前俺が入った時よりも波が高いから、尚更難しいのだろう。俺も息を呑みながら、見守った。
なんとかある程度沖に出たら、波を待ち始めた。しかし、やはり浮いているのがやっとという感じだ。乗れない小さな波にバランスを崩し、次に良い波が来ても、立て直すのが精一杯で、テイクオフの体勢に持っていけない。
何回か失敗を繰り返し、だけど少しずつ安定を保てるようになってきたようにも見えるが、どうしても上手く乗れない。乗れそうになることもあるのに、惜しいところで、やはり体が波に置いて行かれる。それどころか、だんだん疲れてきたのか、波に巻かれて溺れそうになっているようにも見えてきた。俺は見ていられなくなって、自分のロングボードに乗って、海に入って行った。
「春菜さん! 大丈夫ですか! もう上がってください!」
近付いて叫んだ俺に気が付いて、春菜さんは振り向いた。
「悔しい! もう少しで乗れそうなのに!」
「俺が代わります! 小さい板に乗るコツを教えて下さい!」
波が通り過ぎたのを見計らって降りると、ロングボードを渡した。春菜さんは受け取ると、その上に正座をするように乗って、上半身を項垂れて荒れた息を整えた。かなり潮を飲んでいるようで、時々激しく咽込んでいる。
俺は春菜さんの腕から板子のリーシュコードを外し、自分の腕に巻く。そして逆にロングボードのそれを、春菜さんの足首に巻いた。
「ハア、ハア・・・ サーフィンと違って、テイクオフのとき、パドリング(漕ぎ出し)はしないでね。最初の推力はあくまでもキックと、板の角度をフェイス(波面)に正確に合わせて、波の力で得るの。上半身は加重移動ばかりにあまり気を取られず、むしろ波の力を出来るだけ素直に受け止められる角度に気を付けて。その角度が、サーフボードと違って、凄くシビアなの。それから乗れたと思っても、更に数回ダメ押しのキックを続けて・・・」
苦しそうに肩で息をしながら、春菜さんは矢継ぎ早に、辛うじてそこまで言った。
「分かりました。やってみます」
俺はそう言うと、春菜さんが乗るロングボードを小さな波に合わせて押し出した。春菜さんはそのままの体制で、時々ニーパドルをしながら、上手に波に乗って岸に向かった。
俺は体半分板子の上に乗せて、波を待った。春菜さんは、板の「角度」を特に強調していた。それを肝に銘じて、ベストな波が来るのを待つ。今日は本当に、掘れて形の良い波が来る。しかし慣れない板子に乗るには、少しキツ過ぎるか・・・ 恐怖心が、先に立つ。むしろもう少し厚くて遅れ気味の午後の波のほうが、乗りやすかったのかもしれない。
あまりキツ過ぎる波はやり過ごし、俺なりに乗りやすそうに思えた波が来たので、心を決めて体の向きを変えた。
タイミングを計り、板を波面に合わせ、猛烈にキックをする。
しかし、やはりダメだ。体が、置いていかれた。
波に対して、推力が生まれない。むしろ波に埋もれて、喰われる感じだ。どうしたら良いのか、分からない。何度も挑戦するが、無駄に足掻くばかりで、掴めている気がしないのだ。またしても、消沈した。
気が付けば、辺りは薄暗くなっていた。やはり厚い雲のせいで、いつもより暗くなるのは早い。今日はこれ以上続けるのは危険だと判断して、上がることにした。
ふと陸に目をやると、春菜さんが寒そうに、体を丸めているのが見えた。気温も下がってきたから、さぞかし寒かっただろう。気の毒なことをしてしまった。
「待たせてしまって、すみません。寒かったですよね」
浜に戻ってそう言った俺を、春菜さんが唇を震わせながら、笑顔で見上げた。