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第六章 介護士の想い 1話

 「春菜先輩・・・、まだ寝ないって、叩くんです・・・」
 いかにも体育会系の新人女性職員が、そう言いながらじいちゃんの車椅子を押して来た。
 就寝準備の七時を、過ぎていた。
 就寝介助に向かったが、拒否が激しく、ダメだったと言う。仕方なしに、ケアワーカールーム前の集会室に戻って来たのだ。
「無理に寝かせなくても、大丈夫よ。しばらくテレビを見ていてもらってね。あ、テレビの内容に気をつけてね。殺伐としたの、寝る前にはみたくないでしょ? 嫌な夢でも見たら、お気の毒だから」
 春菜さんが、テキパキと指示を出した。
 俺は、夜勤実習に入っていた。
 実習はいよいよ四週目、最終週を迎えていた。
 一年ぶりの夜勤実習に緊張して、日中は眠る事ができなかった。本来なら、徹夜となる夜勤に備えて、日中に睡眠を取っておく事が大事なのだ。
 夜勤は少ない人数で全ての介助を行わなくてはならない。その上お年寄りの急変は夜間が多く、いざとなった時に頼る看護師は、常駐していない。更に勤務時間が、十六時間と途轍もなく長い。厳しく、緊迫感のある勤務なのだ。
 しかし、俺が眠る事ができなかった理由は、緊張からと言うよりも、むしろ喜びからと言ったほうが、良かったかもしれない。
 別に、自虐趣味があるわけじゃない。夜勤メンバーの中に、春菜さんがいたからだ。
 最近勤務が合わず、話す機会が少なかったから、俺はこの幸運な偶然に、心から感謝した。偶然だったのか、それとも川島さんが、俺のケアスタディーのために、工藤さんの担当リーダーの春菜さんと一緒にするように予定を組んだのか、分からない。
 だけどとにかく、俺はすっかり浮かれた気持ちで夜勤実習に望んでいた。
 夜勤は、三人の職員で行われる。今日は俺がいるから、四人だ。しかし俺は相変わらず、足手まといなのだ・・・
 後の二人は、一年目の新人職員の田口さんと、二年目の職員の瀬野さんだった。だから三年目の春菜さんが、この夜勤では一番の経験者となる。
「藤原くん、私たちはこれから洗面介助に巡るんだけど、ここで工藤さんと一緒にいてくれる? 最近体調あんまり良くないから、心配なの。何かあったら、すぐに知らせてね」
 春菜さんはそう言うと、洗面用の蒸しタオルと義歯洗浄剤が人数分用意して置いてある台車を押して、職員二人と共に、居室を巡り始めた。
 俺は「はい」と言って、じいちゃんの横にしゃがんで、テレビの方へ目をやった。
 じいちゃんが、一瞬俺の顔に視線を向けた気がした。
 俺はチラッとじいちゃんの顔を見たが、気のせいだったのか、特にどこかに焦点が合っているわけでもなさそうな目で、さっきと同じように下を向いていた。
 川島さんも、じいちゃんの体調を心配していたが、見た感じ、さほど具合が悪いようには思えない。
 確かに最近、食事中に咽込む事は多くなったし、時々発熱して、一日ベッド上で過ごす日はあった。しかし全身から漂う力強い精気のようなものは、変わる事はない。
 テレビでは、お笑い芸人たちが面白可笑しく喋っている。会場が爆笑に包まれても、じいちゃんはピクリとも視線を向けない。俺が一人で笑って、何だか気まずくなる。
 後ろのケアワーカールームからは、日勤を終えたばかりの職員たちが、一日の緊張感からの解放を喜び合うかのように、楽しそうに喋っているのが聞こえてくる。
 集会フロアには、俺とじいちゃんだけ。じいちゃんは、下を向いたまま。テレビが勝手に、喋っている。
 ぼんやり隣にしゃがんでいるが、やっぱり間が持たない。
 どうにも落ち着かなくなって、語りかけた。
「工藤さん、板子乗り、やってたんですよね」
 その言葉に、突然表情を変えた。
 その変化を、なんと表現したら良いのか。動きがあったわけではない。しかしまるで魂が戻ってきたように、何かが変わった。
 俺は、続けた。
「僕もやるんですけど、どうしても、上手く行かないんです」
 少し悔しさを強調してそう言うと、なんと、じいちゃんの口が開いた。
「ほうか、あんたこないだ、風呂場でもそう言うたな」
 驚いた。突然話し始めた事もそうだが、何よりあの日の事を、そして俺の事を覚えていてくれていた事に、本当に驚いた。
 俺は嬉しくて、少々興奮気味に言った。
「実は、どうしたらいいか、悩んでいるんです。板をフェイス・・・波の面に合わせて、蹴るんですけど、いつも波に置いていかれるんです・・・」
 しかし、じいちゃんは下を向いてどこかを見詰めたまま、無言だった。
 沈黙が流れ、俺はガッカリして、俯いた。
 しかし次の瞬間、じいちゃんの低い声が、聞こえた。
「そん時、波頭はどうだ?」
 俺はあわてて顔を上げて、答えた。
「え? あ、崩れる直前ですけど・・・」
「早ええ」
 今度は間髪入れずに、そう言った。
「え?」
「早ええよ。蹴り出しが」
「早いんですか?」
 じいちゃんは、ゆっくりと、俺の方を向いた。
 その視線が、俺の目を捕らえた。茶色く、精気の漲る力強い眼に、俺は身動きすら取れなくなった。
「そうだ。波頭が崩れてから蹴り出すんだ。良く掘れて巻いてるやつを選べ。そいで・・・」
「待ってください! 書き留めます!」
 俺は我に返ってそう言うと、メモ帳とペンをエプロンのポケットから取り出した。
 じいちゃんはそれを見届けると、話し始めた。
「そいで頭を海面に突っ込むくらい下げるんだ。そうすっと、足が自然に高く持ち上がるから、そしたらもう蹴るな。力を抜け。力を入れると、足が沈んで波に置いて行かれる。とにかく体を思い切り反って足を高く上げて、波底に真っ逆さまに落っこちるくらいの気持ちで行け。板っ子は乗るんじゃねえ。滑らすだけだ」
 俺は必死に、メモを取った。
 興奮と動揺で、まるでミミズがはいずったような字になった。信じられない。じいちゃんが、こんなにも話してくれるなんて。
 メモを取る手が震えて、止まらなくなった。
 じいちゃんは、話を続けた。
 乗り出しの体重移動はこうだ、こういう波のときはこうやる、こうなってしまったら、こう立て直すんだなど、身振り手振りを交えて、興奮したように語り続けた。
 俺も置いていかれないように、書き殴った。
 実習のために用意したはずのメモ帳が、見る見る板子の乗り方で埋まっていく。
 気が付けば、残っていた日勤職員も皆集まっていて、囲まれていた。
 そこにいた皆が、驚きのあまり呆然とじいちゃんを見詰める。
 その中に、洗面介助から戻った、春菜さんもいた。
 俺は春菜さんに向かって、叫んだ。
「春菜さん! 聞きましたか? すごいです!」
 春菜さんは、信じられないものでも目撃したように放心し、呟いた。
「すごい・・・ 工藤さんが、こんなに興奮して喋るなんて・・・ 担当の私でも、一度も見たことなかった・・・」
 日勤職員の中にいた斉藤加奈が、春菜さんの肩を小突いて言った。
「ねえ、春菜。イタコって、なに?」
 春菜さんは我に返ったように、答えた。
「加奈もあの時、いたじゃない」
 斉藤加奈と春菜さんは、同期職員だ。
「工藤さんがお風呂場で言ったこと、忘れちゃった? 昔の波乗りのことよ。藤原くん、ずっと気に留めてて、いろいろ調べていたのよ」
「へぇ~、すごいじゃん」
 そこにいた職員が、ざわついた。
「藤原くん、みんなに板子のこと、説明してあげて」
「え? えっと・・・・」
 照れ臭くなって、口篭った。
「これは、工藤さんの為でもあるのよ・・」
 含みを持たせたようにそう言うと、目で合図を送った。それは明らかに、今こそじいちゃんの言っていることが、真実であると証明する時だと言わんばかりだった。
「はい、分かりました・・・」
 そう言って、立ち上がった。
「最初に聞いたのは、実習二日目の午前中、入浴介助をしているときでした。そのとき・・・・」
 俺は説明を、続けた。
 風呂場の時から始まって、板子の歴史、自分の祖母が持っていた話、春菜さんと試して、ダメだった話、今聞いた板子の乗り方の詳細まで。
 みんな、熱心に聴いてくれた。
 斉藤加奈も、細く切れ上がった目を、もっと細くして、笑顔で聞いてくれた。
「あんた偉いよ。ちゃんと工藤さんの言葉を信じて、そこまで調べたんだね。私たちも、もっとしっかりお年寄りの言葉に、耳を傾けなきゃね。本当に、良い介護士になるよ」
 最後に、斉藤加奈が、優しい笑顔でそう言った。
 その言葉が、本当に嬉しかった。
「だけど減点よ! 就寝前なのに、工藤さんをこんなに興奮させちゃって! これじゃあしばらく寝付けないわよ!」
 一度褒めておきながら、すぐに笑顔でそう怒鳴った。
 笑顔でも、やはり斉藤加奈が怒鳴ると、恐い・・・
 思わず小さくなって「す、すみません・・・」と謝った。
 みんなが、笑った。
 その暖かい笑い声と、じいちゃんへの偏見を払拭出来た喜びが、俺の瞼から熱いものを押し出しそうになった。