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第六章 介護士の想い 2話

 本当に静かな、夜勤だった。
 時計を見ると、夜中の二時前だった。
 零時の排泄介助が終わり、二人の職員が二時間の仮眠に入って、ケアワーカールームには、俺と春菜さんしかいなかった。
 お年寄りからのコールも鳴らず、しばらく静寂が続いていた。
 こんなにコールや着床センサー(転倒の危険のあるお年寄りのベッドの足元に置き、歩こうと足を床に着くと反応して知らせるマット型のセンサー)の反応の少ない夜は珍しいと、さっきまで春菜さんや他の職員達が話していた。
 コールはケアワーカールームに親機が設置してあり、職員はPHS型の携帯着信機を持ち歩く。着床センサーの反応も、携帯着信機に飛ぶ。何処にいても、すぐに対応が出来るようにだ。
 コールが多いか少ないかによって、夜勤の緊張度と疲労度はかなり違ってくる。
 コールは予測も付かないし、日によっても大きく違いがある。
 ほとんど鳴らない時もあれば、よりによって一人きりの時間に集中し、対応しきれない時もある。
「トイレに連れて行ってくれ」と呼ばれ、対応していると別のお年寄りからもトイレと呼ばれる。まだそこに行けないうちに、「具合が悪い」、「眠れない」と、次々にコールが入る。
 そうこうしているうちに「来ないから」と、コールの連打を始めるお年よりも出てくる。介助中で手が離せないときでも、コールに出ないわけには行かないから、手を止めて出る。介助が進まないし、片手で出て会話をするわけだから、集中力も分散する。危険も伴う。
 あげくの果てに、着床センサーの反応音が鳴る。すぐに駆けつけなければ、転倒する危険がある。介助を中断してでも、駆けつける。
 今度は中断して来たお年寄りが危険になるから、すぐに戻る。
 危険度の高く、緊急性のあるコールから対応して、ようやくたどり着たお年寄りの所で「遅くなって済みません」と謝った瞬間「馬鹿やろう! どうして早く来ないんだ!」と怒鳴られ、最悪、殴られる。
 仕事はコール対応だけではない。決められた仕事も終わらせなければ、業務はどんどん押して行く。
 もう、泣きたくなる。冗談抜きに、ひどい時には今すぐこの場で首を括ってしまいたいくらいの気持ちになる。介護の仕事を選んだ事に、激しく後悔をする。
 介護士のストレスというのは、経験しなければ、絶対に分からない。
 想像をはるかに超える激務の中で、お年寄りの生活を守るためにと一人涙を流しながら必死に頑張っている若い子が、今夜も日本のどこかでいることを、どうか忘れないで貰いたい。
 俺は以前の夜勤実習でこれを目の当たりにして、介護士は公共料金はタダにするという法律を作っても良いくらいだと感じた。国会で退屈そうに大あくびをしている政治家の皆さんに、コール対応を手伝ってもらいたいところだが、それが無理なら、せめてこの法案成立を是非とも真剣に目指してもらいたい。
 
 春菜さんはパソコンに向かって、夜勤の状況を入力していた。
 俺はちらちらと春菜さんを気にしながら、実習日誌を書いていた。
 物音一つしない真夜中のケアワーカールームに、春菜さんの打つキーボードの音だけが響いていた。
 集会フロアや廊下の電気は消え、いつもはお年寄りや職員の声で溢れかえるフロアが、まったく別の場所のように感じられる。
「藤原くん、最近、元気がなかったわね」
 春菜さんがパソコンの画面を見たまま、突然そう言った。
 その言い方が優しくて、暖かくて、俺はすっかり弱い気持ちになった。
「はい・・・、いろいろ、ありまして・・・」
 自分のその言葉に、この一週間の出来事が、いっぺんに思い出された。
「いろいろって、実習で?」
 今度はパソコンの画面から目を外して、俺の顔を見てそう言った。
「いえ、家庭とか、いろいろです・・・」
「そう・・・」
 春菜さんは少し心配そうな眼でそう言うと、パソコンの画面に戻して、またキーボードを叩き始めた。
「春菜さん」
 改まって、そう呼んだ。
「え? 何?」
 答えて、また俺の方を見た。
「人間って、何のために生きているんでしょうね・・・」
 突然のその言葉に、驚いた顔をした。
「え? どうしたの? 急に」
 俺は俯いて、言った。
「実はうちのばあちゃんが、飯をちっとも食わなくなったんです。で、もう死にたいって言い出して・・・」
「『ばあちゃん』って、あのビートルに乗ってた、おばあさん?」
「はい・・・ 今、母親が無理矢理食べさせてます。毎日大喧嘩ですよ」
「無理矢理か・・・」
「『死にたい』って言っている人を無理に生かすのは、エゴですか?」
「う~ん・・・」
「俺、時々、介護が介護者のエゴや自己満足なんじゃないかって感じてしまう瞬間があるんです・・・」
「それは随分極端で、危険な言い方ね・・・ だけど言いたい事は、なんとなく分かるような気がするわ・・・」
「前の実習先で、良く見かけたんです。『もう寝かせて』って懇願しているお年寄りに、『寝てばかりじゃ寝たきりになっちゃうから、もう少し頑張って起きてて下さい』って言ったり、『食べたくない』って拒否するお年寄りに、『栄養付けなきゃ弱るから、頑張って食べましょう』って、無理に食べさせたりしている場面を・・・」
「そう・・・ それは確かに、辛いわね・・・」
「どちらも、医学的、介護学的に言えば正しい事を言っているのかも知れない。だけど八十年間、いや、九十年間必死に頑張って生きて来た方達に、こんなまだ二十年そこそこしか生きていない僕らが『頑張りましょう』なんて言うのは、どうなんでしょうね? 九十年間頑張って生きてこの国を、いや世界を支えてきた方達に、これ以上頑張らせて、嫌な思いや苦しみを与える事が、介護なんですか?」
 春菜さんは、真剣な表情で言った。
「藤原くんの疑問は、もっともだと思う。だけどそれは一応、寝たきりや衰弱が、もっと重い苦しみになるから、そうならないようにしましょうという、善意でしょ?」
 間を置かず、答えた。
「確かに、善意だと思います。だけど単なる一つの価値観に過ぎないとも、感じます。それをお年寄り本人がどう感じるかという『心』や『気持ち』の部分を先に考えなければ、介護している側の自己満足にしかならない危険性はないですか?」
 興奮して、夢中でそう言った俺の顔を見て、春菜さんは急に、いつもの花のような笑顔になって笑った。
「フフフ・・・」
 その微笑で、急に恥ずかしくなった。
「え? 何か、おかしいですか?」
 その笑顔のまま、優しい瞳で言った。
「いいえ、嬉しいの。とても藤原くんらしい、言葉ね。」
「嬉しい? それに、僕らしい言葉・・・ ですか?」
「そう。こんなにも介護に真剣に悩める学生さん、始めて見た。今の話、川島さんが聞いたら、きっと喜ぶわよ。一晩中語り明かして、帰してもらえないかも」
 ふざけて笑って、そう言った。
「先々週、付き合ってた子と、別れたんです・・・ その子は、僕の事を投げやりな男だって・・・」
 その言葉に、春菜さんは少し表情を変えて「そうなんだ・・・」と呟くと、続けて言った。
「いろいろ悩んでしまう事と、投げやりな事は、ぜんぜん違うわ。藤原くんは、一生懸命で、素直だから、へこむ事もあるだろうし、悩んでしまう。それはむしろ、とても素敵なことよ」
「悩んでしまう事が、素敵なことですか?」
「そう。素敵で、大切な事。だからその気持ちを、その疑問を、ずっと忘れないでね」
 春菜さんは微笑を残したまま、真剣な眼差しでそう言った。
 その言葉が、俺の心臓に、突き刺さった。
 俺がこれまで、介護の現場に感じてきた疑問や絶望感が、「素敵で、大切な事」なのだと言われた。その気持ちを、ずっと忘れるなと言われた。
 胸がいっぱいになって、破裂しそうになった。
 今まで蔑まされていた自分の心が、今、救われたような思いがした。
 涙が、溢れそうになった。
 春菜さんは、時計に目をやった。
「さあ、そろそろ巡回に周る時間ね。行きましょう」
 そう言って立ち上がると、「そこの懐中電灯を持ってきてくれる?」と言って、出入り口の扉を開けて、出て行った。
 俺は我に返って立ち上がると、壁に掛かっていた懐中電灯を取って、急いでその後を追った。
 春菜さんの後ろ姿を見詰めて、涙を、飲み込んだ。
 
 
「巡回では、お年寄りに異常がないかを見て廻るのよ。ぱっと見ただけじゃなく、呼吸状態や表情なんかもしっかり確認してね。かと言って、懐中電灯で直接顔を照らすような事をしちゃダメよ」
 春菜さんはそう言いながら、体温計と血圧計、簡易型のパルスオキシメーターと記入用バインダーが置かれた台車を、静かに押した。
 この施設は開設が古く、全てが四名ずつの多床室だ。国の方針で個室のユニット型施設がどんどん増やされていく中で、多床室の従来型のこの施設は、珍しい存在になりつつある。
 俺は春菜さんの後に付いて、部屋を廻った。
 随分寝相が悪いお年寄りの、はだけた布団を直したと思ったら、次は自分では全く動くことの出来ない方の体の向きを、春菜さんと一緒に変える。一晩中大声を出してほとんど眠っていないお年寄りもいる。ひとえに特養と言っても、入所しているお年寄りの状態はさまざまだ。
「この方は、血中酸素濃度を維持するために、酸素カニューラ(鼻の中に酸素を送るチューブ)を片時も外せないの。外れていないかの確認と、酸素を送る機械の確認、それから念のために、血圧と体温、血中酸素濃度も測って行くわよ」
 春菜さんは小さな声でそう言うと、台車に置いてあった体温計と血圧計、パルスオキシメーターを取った。
「井口さん、お休みのところ、ごめんなさい。血圧と体温を測らせてください」
 耳元でそう囁いてから、電子血圧計を麻痺のない左腕に巻き、スイッチを入れる。すぐに圧縮空気を送り、測り始める音がする。
 血圧を計り終えると、今度は篭り熱を冷ますよう腋の下をハタハタとしてから体温計を入れる。同時に人差し指の先にパルスオキシメーターを装着する。
「読んでいくから、そのバインダーの用紙の井口さんの欄に記入してくれる? まずは血圧からね。えっと、一一七/六五、プルス六〇、体温三六・二度、サーチュレーション九六%。特に異常は無いわね。記入できた?」
「はい、大丈夫です」
「ありがとう、じゃあ、次のお部屋に、行くわよ」
 春菜さんはそのお年寄りに「終わりましたよ。おやすみなさい」と言って布団を掛けると、計測器を台車の上に乗せた。
 なんだか、こんなふうに春菜さんと一緒に仕事が出来るなんて、嬉しい。しかも、幻想的に静まり返った、真夜中の施設で、二人きりだ。
 聞こえてくるのは、お年寄りの寝息と、空調の音だけ。
 本当に、幸せな時間だった。
 春菜さんが先を歩き、俺が後から台車を押して、隣の部屋に入って行った。
 春菜さんは奥で寝ているお年寄りから確認に入り、俺は入り口の脇に台車を置くと、手前のお年寄りの確認をしようと、ベッドに近付いた。
 非常灯だけの暗がりだったが、そのお年寄りが仰向けで開眼しているのが分かった。ベッドのネームプレートには、『坂井まさ』と書いてある。
「坂井さん、眠れないんですか?」
 小さな声で、話しかけた。しかし、反応がまったく無い。一点を見詰めたまま、ピクリとも動かない。何だか、様子がおかしい。
「どうかした?」
 すぐに春菜さんが近付いてきて、そのお年寄りの顔を覗きこんだ。
 春菜さんの表情が、なんとなく変わった。
「坂井さん?」
 少し大きな声で、声を掛けた。しかしやはり、反応はない。
 春菜さんは急いで、ベッドランプを付けた。
 ベッドランプに照らされたお年寄りの顔面は蒼白、唇は、完全に紫色になっていた。
「たいへん・・・」
 春菜さんの顔色も、変わった。
「坂井さん! 坂井さん!」
 大きな声で名前を呼びながら、肩を叩いた。お年寄りの頭が、力なく揺れた。
 春菜さんはお年寄りの首の後ろに枕を入れて顎を上げると、耳を近づけ、呼吸を確認した。
「呼吸してない・・・ 藤原くん! 仮眠中の二人を起こしてきて! 急いで!」
 俺は一瞬固まったが、すぐに「は、はい!」と叫ぶと、仮眠室に走った。
 集会室を曲がって、階段を駆け下りる。
 気ばかり焦って、足が縺れそうになる。心臓が、バクバクと音を立てているのが聞こえた。仮眠室までが、やけに遠く感じる。
 
 俺が二人の職員を連れて部屋に戻ると、春菜さんがベッドに上がって、心臓マッサージをしていた。
「ダメだ・・・、こんなんじゃ、意味が無いわ・・・」
 入ってきた俺たちに気が付いて、振り向いて言った。
「瀬野さん! 救急車を呼んで! その後に電話当直の看護婦さんに連絡ね! 田口さんは医務室から酸素ボンベを持ってきて! 藤原くん、一緒にこの方をベッドから降ろすわよ!」
 俺は慌てたが、職員との二人介助の移乗は、やったことがある。
「私が上を支えるから、藤原君は腰と膝裏の手を入れて、『せいの』で持ち上げるわよ」
 俺は言われるがままにした。
「せいの!」
 春菜さんの掛け声で、坂井さんというお年寄りを抱え上げ、ゆっくりと床に降ろした。ベッドなどの柔らかい物の上では、心臓マッサージの効果が無いのだ。
 春菜さんは再び、その小さな体の力を全身に掛けるように胸の上に覆いかぶさり、心臓マッサージを始めた。
 すぐに田口さんが、真っ青な顔で酸素ボンベを持って来た。しかし、持っているのはボンベだけだ。
「マスクとチューブがなきゃ、酸素は送れないわよ。薬棚の下の引き出しに入っているから、早く持ってきて!」
「ス、スミマセン!」
 田口さんが、また走る。
 春菜さんは、心臓マッサージを続ける。
 すぐに戻ってきた田口さんが、震える手でチューブとマスクをボンベに繋いで、お年寄りの口に当てる。しかしゴムの取り回しに手間取り、なかなか固定できない。
「落ち着いて。大丈夫よ。マスクは手で押さえて、先に酸素を全開で流して」
 同時に、救急車を要請した瀬野さんがパルスオキシメーターと電子血圧計を持って部屋に入って来た。春菜さんが心臓マッサージを続けるなか、瀬野さんがサーチュレーションと血圧を測る。
「どお?」
「ダメです・・・ 共に、エラーです・・・」
「ああ・・・」
 春菜さんが、絶望的な表情になる。
 必死の心臓マッサージは、続く。
 プルル、プルル・・・・
 こんな時に限って、着床センサーの反応が携帯コールに着信する。
「田口さん、マスクを押さえるのを藤原くんと替わって。二六号室の大山さんの対応に行ってちょうだい」
 目に涙を浮かべてマッサージを続けながら、ぎりぎりの冷静を保って、そう言った。
 俺はすぐに代わり、田口さんは震える声で「はい」と言って、走って部屋から出て行く。
 ゴキッ、ゴキゴキッ、
 次の瞬間、春菜さんの動きにあわせて、お年寄りの胸から、鈍い音が聞こえた。
 涙をこらえるように噛んでいた春菜さんの唇が、震えた。
「あぁ・・・ 肋骨が、折れる・・・」
 弱々しくそう言った春菜さんの目から、涙がこぼれ落ちた。
 俺はマスクを押さえる手に、ぬるい液体の感触を感じて、目をやった。
 お年寄りの口から、血液が流れだしていた。
「!」
 俺は声にならない叫びを上げた。
 血液は、後から後からゴボゴボと止め処なく溢れ出し、マッサージを行う春菜さんの手に容赦なく流れ落ちた。
 春菜さんの手が、見る見る血液で染まる。涙が、ボロボロと流れ落ちる。
 それでも春菜さんは、全身の力を込めてマッサージを続ける。
「あぁ・・・、神さま、助けて・・・」
 嗚咽に近い声で、そう言った。
 次の瞬間、部屋の外から「こっちです!」と言う瀬野さんの声が聞こえたかと思うと、担架を持った救急隊員が数名入って来た。
「後は私たちが代わりますから、状況を説明してください」
 救急隊員の一人が、俺の手からマスクを取りながら冷静にそう言うと、春菜さんは嗚咽を抑えるように肩を揺らし、腕の部分で涙を拭いて、崩れるようにお年寄りから離れた。
 俺は、放心した。
「大丈夫?」
 施設の電話当直の看護師も到着し、春菜さんの肩に手を置いてそう言った。
 春菜さんの、震える声ながらも冷静な状況説明が、耳鳴りのように響いた。
 呆然と立ち竦む俺の目の前で、救急隊員たちが、冷静に対処し、お年寄りを担架に乗せている。
「私が病院に付いて行くから、あなた達は少し、休みなさい。本当に、ご苦労さまね」
 状況を聞き終わった看護師がそう言うと、担架を持つ救急隊員たちと一緒に、部屋から出て行った。
 俺たちは、静寂の中に取り残された。
 あっと言う間の、出来事だった。ちょっと前までの俺は、春菜さんとの二人きりの時間に、浮かれていたはずなのに。
 俺は春菜さんの方に、目をやった。
 すっかり精気のない表情で、呆然と立ち尽くしていた。
 掛ける言葉が、見つからなかった。
 春菜さんはゆっくりと両手を持ち上げると、血液で染まった自分の手を見詰めた。
 そして俺のほうへ視線を向け、俺の手にも血液が付いているのを見ると、力無く言った。
「手を、洗いに行きましょう・・・」
 汚物処理室の流しで、春菜さんと並び、手を洗った。あっと言う間に、流しは血液で真っ赤に染まった。
「ウッ・・・・、ウッ・・・・」
 その声に、隣を見た。春菜さんは、多量に付いた血液を一生懸命洗い流しながら、目に涙をいっぱいに溜め、唇を噛んでいた。
 そしてまるで力が抜けたように、するするとその場に跪いたかと思うと、項垂れて、「わ~っ!」と声を上げて、泣いてしまった。まるで子供のように、「うわ~ん! うわ~~ん!」と大きな声で、泣き続けた。
 春菜さんの小さな背中が、揺れ続けた。たった三年目の、二十歳そこそこの少女の肩に、一人の人間の命が背負わされる。
 今彼女は、その小さな体で、必死にその重荷に耐え、戦った。
「春菜さんは・・・ とても冷静に、良く、頑張ったと思います・・・」
 俺は、その程度の言葉しか、掛けられなかった。介護の仕事の責任の重さを、痛烈に実感させられて、完全に打ちのめされた。
 
 
 数時間後、そのお年寄りが亡くなったと、連絡が入った。
 死因は、脳梗塞による急性心不全。医師の所見では、俺たちが対応したときには、
 既に亡くなられていたであろうとの事だった。口から溢れ出た血液は、折れた肋骨が肺に刺さっていたとの事と、食道か咽頭に静脈瘤があり、その破裂による出血と思われるとの事だった。
 心臓マッサージは、肋骨が折れる事を躊躇してはいけないのだ。骨折などの傷害よりも、心肺蘇生の方が優先されるからだ。しかし、分かっていても、それを冷静に出来る素人は稀だと言う。医師や看護師、救急隊などのプロ以外は、肋骨の折れる感触に恐怖して、出来なくなってしまう。よっぽどの責任感と、その人を蘇生しようという強い意思が無ければ、出来ない事なのだ。春菜さんは、その恐怖と、必死に戦っていたんだ。俺は、いたたまれない気持ちになった。
 病院から帰ってきた看護師が、春菜さんに「とても冷静で、素晴らしい対応だったわよ。ありがとう」と声を掛け、慰めていた。
 
 
 急死であった為に、翌朝、警察の事情聴取が入ることになった。
 春菜さんが、状況説明のために、相談員室に連れて行かれた。俺と二名の夜勤者は、川島さんに、帰って良いと言われた。
 更衣室で着替えながら、俺は重いため息を吐いた。長い、夜勤だった。
 職員用玄関を出ると、長い階段を、重い足を引きずって、登った。だけど春菜さんの事が、気になって仕方がない。
 階段を登りきると、俺はため息と同時に、来た道を振り返った。
 やっぱり、どうしても気になる。このまま帰ってしまう気持ちには、なれなかった。
 ちょっとでもいいから、春菜さんと話がしたかった。別に、込み入った話でなくても良い。顔を見て、「お疲れさまでした」の、一言でも良かった。
 俺はその場にしゃがみ込んで、階段に腰掛けた。
 ここにいれば、春菜さんは必ず通るはずだ。
 項垂れて、目を閉じた。コールの音が、まだ耳の奥に残り、激しい夜勤の風景が、瞼の裏に映し出された。
 意識が、遠くなって行った。
 
「あれ? 藤原くん?」
 その可憐な声に、目が覚めた。
 俺は顔を、上げた。
「帰って、なかったんだ・・・」
 目の前には、春菜さんが立っていた。
 俺は慌てて立ち上がると、頭を下げて言った。
「春菜さん、何の力にもなれなくて、すみませんでした・・・」
 春菜さんは笑顔になって、優しい声で言った。
「そんなことないわよ。いろいろ、ありがとうね。大変な夜勤実習になっちゃったわね。本当に、ご苦労さま。お礼に、家まで送って行くわ」
 その申し出に、慌てて言った。
「いえ、そんな・・・ 電車で帰るから、大丈夫です。ただ、もう一度春菜さんの顔が見たくて・・・」
 勢いでそう言ってしまったことに恥ずかしくなって、俯いた。
 春菜さんは少し潤んだ瞳で「ありがとう・・・」と呟くと、
「遠慮しないで、私の家は朝比奈の向こう、釜利谷だから、長谷は丁度通り道よ。さあ、行くわよ」
 と言って、歩き出した。
 俺は春菜さんの後を追って、職員用駐車場まで歩いた。
 春菜さんは、ナース服のままだった。きっと着替える気力が、無かったのかもしれない。大きなバックを、肩から提げていた。
 そう言えば、俺は春菜さんの車を、見たことが無い。
 春菜さんの歩くままに着いて行くと、青と緑を混ぜたようなメタリック色の、随分角ばった小さな車に近付いて行く。キャンバストップで、見たこともない、左ハンドルの車だ。どうやら、外車らしい。
「イタリアの古い車よ。『フィアットパンダ』って言うの。『パンダ』だなんて、かわいい名前でしょ?」
 そう言って、笑顔を見せた。
 確かに、小柄でかわいい春菜さんに、ピッタリの車だった。
 春菜さんは乗り込むと、エンジンを掛け、中から助手席のドアを開けて「どうぞ」と言った。
 乗り込むと、「古い車」と言われた程、古風な感じではなかった。クラッシックというよりは、むしろモダンという言葉の方がピッタリだ。ばあちゃんのビートル程、古い車ではなさそうだ。
 プルプルプル・・・と、小排気量の軽いエンジン音で、アイドリングを刻んだ。
 それよりも、驚いた事に、この車はマニュアルミッションだった。アイドリングの音に合わせて、その小さな車体のわりにはゴツいシフトノブを震わせていた。
 春菜さんはクラッチを踏んで、右手でそのシフトノブを掴んだかと思うと、慣れた手さばきでギアをローに入れた。軽くアクセルを吹かすと、するすると車を走らせた。
 
「綺麗な、空ね・・・」
 国道134号線に出ると、春菜さんがそう言った。
 空は、青かった。夜勤明けの目には、眩し過ぎた。
 あの壮絶な夜勤や、一人の人間が亡くなった事など構いもなく、海は美しく、輝いていた。春菜さんのその一言は、人間の事情など全く顧みない自然の営みを、噛み締めているように聞こえた。
「明日も、良いお天気みたいね」
 春菜さんは、夜勤の話は、一言も話さなかった。
 ただ他愛も無い話だけを、続けた。
 それがむしろ、いたたまれなかった。
 
「今日は本当に、いろいろありがとうございました」
 長谷駅の前で、車を降りながら、俺はそう言った。
 春菜さんは一度、何か躊躇したような表情をしたが、はにかんだ顔で、俺の顔を見て呼び止めた。
「藤原くん・・・ 大変な思いをさせちゃったお詫びに、明日私の車で、気晴らしのドライブに行かない?」
 うっすらと頬を染めて、春菜さんはそう言った。
 その言葉に、心臓が止まりそうになった。春菜さんに、ドライブに誘われたのだ。
 俺は身動きすら、取れなくなった。
「嫌?」
 黙る俺に、春菜さんは不安そうな顔でそう言った。
「嫌だなんて、とんでもないです! 嬉しいです! 嬉しすぎて、金縛りにあってたんです! よろしくお願いします!」
 そう言って、頭を下げた。
 断る理由など、ある訳も無かった。明日は、夜勤明けの次の日に実習はキツいだろうとの事で、休みにしてある。そのために、日数不足にならないよう、先週の土曜日に出勤しているのだ。
 春菜さんは一度胸に手を当てて「ホッ」っと一息吐くと、安心したような笑顔で俺を見て、「良かった」と言った。
 嬉しかった。この前の板子乗りの時とは、訳が違う。今度は、れっきとしたデートだ。丸一日春菜さんと、一緒にいられるのだ。嬉し過ぎて、興奮して、動悸が治まらないくらいだった。
 家に帰っても、夜勤明けだというのに、まったく寝付けなかった。何度も寝返りを打って、一人でニヤニヤしていた。他人が見れば、さぞかし気色悪い姿だっただろう。