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第五章 其々の思い 5話

 しかしもう、母親のトラウマなどとっくに通り越した言い合いになっていた。
 ばあちゃんは俯くと、肩を震わせて言った。
「そうすりゃ今頃、愛しい人のところに行ってたんだ・・・ 愛しい人と死に別れて、あたしがどんだけ苦しみに耐えてきたか、分かるかい? その人の事を口に出すことも許されずに、ずっと耐えてきた、必至に耐えてきたんだよ。切なくて、何度死のうと思ったか分からない。だけど残された子供の為に、必至に生きてきた。あんたの為に、頑張って生きてきたんだよ! もう許しておくれよ! もう愛する人の所へ、行かせておくれよ!」
「私だって、同じよ・・・ 武彦さんを、返してもらいたいわよ!」
 そう言うと母親は「わぁ~」と声を出して、泣き崩れた。
 武彦とは、俺の親父の名前だ。
 俺にはもう、どうすることも出来なかった。
 何一つ、仲裁の言葉など出なかった。
 生きるという事が、残酷になる時もある。
 どうしてこれ以上、ばあちゃんは苦しんで生きていかなければならないのか。
 本人の望まない生が、そんなに大事なのか。
 俺はもう、ばあちゃんを愛する人の下へ、旅立たせてあげたい気持ちになった。
 以前、川島さんがしてくれた、話を思い出した。
 
 「海の見える丘」で生活するお年寄りで、重度の認知症により、徘徊(目的不明で歩き回る)と異食(食べ物でないものも口に入れ、食べてしまう)、譫妄(興奮して、大声を出して暴れたりする)、漏便(自分が排泄した便をいじり、辺りに散らす)などを繰り返すおばあさんがいる。
 その人は在宅時代に、家族が介護疲れからノイローゼになり、介護放棄と虐待により、緊急入所となった。生命の危機的状態にあったそうだ。
 入所後も状態は変わりなく、対応する職員たちも疲れ果て、精神的苦痛から体調を崩す者まで現れたほどだった。
 何時しか、職員達からも厄介者扱いをされ、敬遠されるようになった。
 入所の手続きの際、家族は泣きながら、訴えたと言う。
「毎晩の徘徊と譫妄で、睡眠時間はほとんどない。ちょっと目を離すと、何でも口に入れたし、便で部屋中を汚した。何を言っても理解してもらえなくなった親を介護し続ける苦しさは、それを味わった者にしか分からないだろう。
 母は昔、おしゃれで、優しくて、娘の私から見てもとても素敵な親だった。
 ところが八十歳を迎える直前に、心臓を煩って、入院した。
 その時医者から、生命を維持するには、ペースメーカーを入れるしか無いと宣告された。私は当然、了承した。それを断るなど、考えもしなかったし、社会的慣習から考えたって、生命を維持出来る選択があるのに、それを選ばず死を選ぶなど、普通に考えて有り得ないでしょう。
 しかし母は、退院して数年で認知症が進行し、現在の状態になった。
 苦しい日々が、続いた・・・
 もしあの時母にペースメーカーを入れなければ、もしペースメーカーなどない時代だったら、今頃母は美しい遺影となって仏壇に飾られ、家族から『本当に優しくて素敵なおばあちゃんだったね』と、良い思い出として語られ、自分の娘をノイローゼにすることもなく、暴力を受けることもなく、本人もこんなに辛い思いをしなかったんじゃないか。母も、私たちも、もっと『幸せ』だったんじゃないか。
 命を『維持する』という事と、人間を『幸せ』にするという事は、必ずしもイコールではないですよね? 自然の意に反して、人間の技術が勝手に命を延ばすという事は、本当に正しい事なんでしょうか?」
 
 川島さんはその話に対して、「正しい」とか、「間違っている」とか、結論付けるような事は一切言わなかった。ただ一つの現実として、藤原くんはどう思うか? と訊いてきた。
 答えなど、出なかった。だけど川島さんは、考え続けろと言った。答えを出せという意味じゃない。「考える」事に意味があると言った。
 今正に、俺の目の前で、そのれが求められているように思えた。
 苦しくて、仕方がなかった。
 
 母親はもう、自分の部屋に戻っていた。あの後二人とも気分を悪くして、それぞれベッドに横になったんだ。俺はばあちゃんのベッドの横に、座っていた。
 この部屋は、あの書生が使っていた部屋だ。改築の時ばあちゃんが絶対に許さなくて、当時のままの姿で残された。
 書斎机の傷も、柱の染みも、俺が座っているこの不安定な椅子の微妙な足の長さの違いも、ずっとそのままなのだろう。
 きっと何一つ、変わっていない。
 静まり返ったこのタイムカプセルの中で、古い柱時計が時を刻む音と、ばあちゃんの呼吸の音だけが、かすかに聞こえている。
 この不思議なノスタルジーの世界に身を沈めていると、いったい今がどんな時代なのか、分からなくなる。
 今にもそこの扉を開いて、袴をはいた書生が帰って来そうにさえ、思えた。
 その書生は、今頃どうしているのだろう。生きているのか、死んでいるのか。生きていれば荷物を取りに来るはずだから、もう死んでしまったに違いない。
 まったく、謎の多い書生だ。
 俺はばあちゃんの寝顔を見て、思わず、心の中で、「ばあちゃん、書生さんのことを、もっと詳しく教えてくれよ」と呟いた。
 瞬間、ばあちゃんがゆっくりと目を開けたかと思うと、か細い声で言った。
「ここにいた書生はね、あたしの旦那だよ。つまり、あんたのじいちゃんだ」
 驚いた。
 ばあちゃんが起きていた事にも、偶然にも俺の心の中の質問に応えた事にも、そして何より、その話の内容に、驚いた。
 とにかく突然の話に、頭の中の、整理がつかない。
「ちょっと待って・・・ 太平洋戦争で亡くなったって言う、ばあちゃんの旦那が、ここに住んでいた、書生さん?」
「そう、賢ちゃんには、もう話しちまおうかと思って・・・ あたしはあの人と、恋仲だったんだよ・・・」
 突然の矢継ぎ早の告白に、気持ちが付いて行かない。
「親には、激しく反対されていたんだよ。鎌倉御家人直系の一人娘が、あんな道楽書生の漁師の次男坊と恋仲になるなんて、絶対許さないって・・・」
 ばあちゃんは少し声を大きくして、続けた。
「だけど戦争が激化して、学生だったあの人にも、徴兵が迫っていた。あの人は、『徴兵されて陸軍にでも入れられて、知らないジャングルの中で野垂れ死ぬくらいなら、俺は海の上で潮風になって死にたい』って、大学から海軍の飛行予備学生に、編入願いを出しちまったんだ。まったく、思ったらすぐの人だったからね。知っていたら、あたしが止めたのに・・・」
「ヒコウヨビガクセイ? なんだそりゃ?」
「海軍の航空隊に入るための、学校だよ」
「海軍の、航空隊?」
 航空隊という言葉に、更に驚いた。
 なんだか聞き覚えのある展開になってきて、どうにも胸騒ぎがする。
「飛行学生時代の成績は良かったみたいだけど、教官に反抗的だったみたいで、航空隊に入ってすぐ、特攻隊にされちまったんだよ・・・」
 ばあちゃんの口が、特攻隊と言った。その言葉が、俺の脳髄を直撃した。
「えっ! 特攻隊? 特攻隊員だったの?」
「そうだよ」
 今までばあちゃんの旦那は戦争で死んだとは聞いていたが、特攻隊と聞いたのは、初めてだった。
 この展開、いったいどう整理すれば良いのだ。
「出撃の前夜、私たちは由比ガ浜の海岸で、結ばれたんだ。それで出来たのが、あんたの母さんだよ」
「ちょっと、待ってくれ・・・」
 頭が混乱して、どうにかなりそうだった。
 ただでさえ突然の告白に戸惑っていると言うのに、俺の頭の中には、もう一つの疑問が渦巻いて収拾がつかなくなっている。
 浜松、板子乗り、航空隊、特攻隊・・・
 こんな偶然が、あるのか?
 ばあちゃんは相変わらず、その人の名前を言わない。
 どうしてだ?
 何か意味があるのか? 
 それとも、たまたまなのか? 
 だったら今、訊いてしまおうか? 
 しかし、その勇気が、出ない。どうしても名前を言えない、何か凄いタブーでもあったら、どうする? 
 俺はそれを、こじ開けちまうのか? 
 知ってしまう事が、恐くはないか? 
 それを知ってしまったら、俺はいったいどうすればいいのだ? 
 知ったからと言って、俺に何が出来る?
 考えて、身動きが取れなくなった。
 足が、震えた。
「あの人は、本当に潮風みたいに、行っちまったよ・・・ あたしはもう、疲れたよ・・・早くあの人のところへ、行きたいよ・・・」
 力なくそう呟くと、ゆっくりと目を閉じた。しわくちゃな目尻を伝って、涙が一筋、落ちて行った。
 俺は何も言えなくなって、項垂れた。鼻の奥に痛みが広がって、どうにも出来なくなった。必死に閉じた瞼を、熱いものが割って流れ落ちた。
 ばあちゃんの寝息が、聞こえてきた。
 ばあちゃんを、その人に、会わせてやりたかった。
 俺は金縛りにあったように、ただそこに座って、溢れる涙に身をまかせた。