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第五章 其々の思い 2話

 俺は、冷静に答えた。
「俺は最初から、理穂が思うような男じゃ、なかったんだ」
 理穂は潤んだ瞳のまま、こっちを見ていた。その珍しくかよわい瞳に、俺はもうこれ以上、偽りの自分を見せるのはよそうと決心をした。
「俺は介護に、特に深い思い入れがあってこの大学に入った訳じゃないんだ。そりゃ、うちにも年老いたばあさんがいるから、全く興味が無かったわけじゃないけど、それよりも世間が『これからは介護が重要な産業になる』なんて言うもんだから、この就職難の時代に、介護の資格の一つでも取っておけば、喰いっぱぐれる心配はないんじゃないかと思って、ほとんど衝動的に選んだんだ・・・」
 そしてまるで他人事を話す風情で、何か例え話でも語るように続けた。
「だけど入学式の日、俺は一人の美しく可憐な女子大生に、一目惚れをしたんだ。そしてなんと幸運にも、その子と同じクラスになった。心から、神様に感謝したよ」
「え? 何の話?」
 理穂は、怪訝そうな表情になった。
「俺は神から与えられたこのチャンスを、絶対に逃さないって自分に誓ったんだ。『この子を絶対彼女にする!』ってね」
 話している内容が見えてきたらしく、理穂は冷静な表情になった。
「しばらくして、俺はその子の並々ならぬ介護への思いに、気が付いたんだ。そして『この子に近付くには、これしかない!』って、確信を固めた。俺は、親しくなりたいがために、熱心な学生に変貌を遂げた。講義は休まず出席したし、特に理穂と同じ講義は、一度も休まなかった。講義が終わった後には、これ見よがしに講師に質問もした。心を改めて、介護の勉強を猛烈に頑張ったよ。そのお陰で、同じゼミにも入ることも出来た」
 理穂は、黙っていた。少し怒っているようにも、見えた。
 俺は少し弱気になって、言った。
「だけど、悪くは思わないで欲しい・・・ やたらと腹黒い男に思うかもしれないけど、意中の女の子の気を引くために、他愛もない見栄を張っていただけなんだ・・・」
 その言葉に、理穂は冷静さを保ったまま応えた。
「だけど私は、まんまとあなたの策略に、落ちたって訳ね・・・」
「策略だなんて・・・ 別に、騙したつもりは、ないんだ・・・」
 理穂は、少しだけ表情を硬くして言った。
「別に、騙されたとは、思ってないわよ。だけどつまり、変わってしまった後の、投げやりなあなたが、本物だって言うのね?」
「恥ずかしい話だけど、その通りだ」
 客観的に、そう答えた。
「じゃあ、化けの皮が剥がれてきたのは、どうして? 私に飽きてきたから?」
 少し感情的になって、そう言った。
 慌てて答えた。
「そんなんじゃない。それは、信じてほしい」
「じゃあ、どうして?」
「見栄のためとは言え、俺は介護の勉強を本当に一生懸命やっていたよ。だけど勉強を真面目にすればするほど、介護というものに疑問を抱いてしまうことが、多くなって行ったんだ・・・」
「どうして?」
 じれったそうに、そう言った。
「だって、講義で習う介護の理想と、実習で見る介護の現場の実状は、あまりにも掛け離れてるじゃないか。理穂は、悲惨な介護現場を見て、絶望的な気持ちにならないの?」
 更に感情的になって、間髪入れずに答えた。
「だってそんな事にこだわっていたら、介護の仕事は、出来ないじゃない。私はどんな時にも冷静に仕事がこなせる、立派な介護士になりたいの」
「お年寄りの介護をするのに、『仕事をこなす』なんて言い方、しないでくれ。それに立派な介護士って、いったいどう言う介護士だよ」
 俺も思わず、声を荒げた。珍しく感情的になった俺に、理穂は攻撃的な目になって言った。
「じゃあ賢治は、介護って、何だと思うの?」
 来た。この質問だ。
 俺は何かに付け持ち掛けられるこの質問が、大嫌いだ。
 これを仕掛けてくる時の理穂の目は、まるで獲物を見つけて低い姿勢で忍び寄る、猫科の肉食獣だ。次の反応次第で、止めを刺そうと狙っている。俺がはっきり答えられないでいようものなら、鬼の首でも取ったように、自分の介護観を、機関砲のように語りだすのだ。射速速度よりも、一発一発の破壊力が凄い。機関銃ではなく、正に機関砲なのだ。
「そんなの、分からないよ・・・」
 その言葉を待ってましたとばかりに、獲物の息の根を絶つような勢いで言った。
「結局、答えられないじゃない。そんなことも答えられないで、『立派な介護士ってなんだ』なんて、言わないでよ。あなたの目指している物は、そんな物なの? ちゃんと『これだ!』って答えられるものは、無いの? そんなだから、介護福祉学科はいつまでも他の学科にバカにされるのよ!」
 確かに、うちの学科は「県立医科大の面汚し」と言われるほどに、内外を問わず馬鹿にされている。
 大学は歴史もあり、神奈川県では名の知られた名門医科大学だが、名立たる医学部や歯学部、薬学部や看護学部の中にあって、介護福祉学科が付属する保健福祉学部だけは、少し様相が違っていた。四~五年前に新設された学部で、要するに近年需要が急増し、人材不足が叫ばれるようになった介護の人材育成に遅ればせながらようやく参入し、時代の要求に乗ろうという俄作りの後付け学部なのだ。
 その中でも介護福祉学科は、他の専門的な資格を取得する学科に比べ、介護福祉士という非常に専門性の薄く見られがちな資格しか取得できない。正確に言えば「資格が取れる」のではなく、「国家試験の受験資格が得られる」のだ。
 現状、介護福祉士の資格を持っていなくても、法的には介護業務は実施できる。すなわち介護福祉士は、「私は介護福祉士です」と言って良いか否かの名称の使用のみ制限する「名称独占」の資格なのだ。
 対してその資格が無ければ業務そのものが実施できない「業務独占」の医師や看護師、理学療法士などの資格とは、同じ国家資格でも、圧倒的に重みや専門性が違うと判断される。
 取れる資格だけでもこれだけの差がある上に、更に現在の介護福祉士の不人気も相いまって、入学するのは非常にたやすい。巷では「小田原の『おサルの籠屋』でも入学できる学科」と噂されるほどだ。
 なにしろ進学校でもない高校出身で、在学中は剣道とサーフィンしかやっていなかった俺が、ほとんど勉強もせずに推薦入試で現役入学出来てしまうのだから、まったく「おサルの籠屋」が入れてしまっても、不思議ではない。大学としても、先を読み間違えて後悔をしている、お荷物的学科なのだろう。何度も閉講の噂が流れた。
 とにかく理穂はその事に、特にコンプレックスを感じている。
「賢治は、こんな状態で、悔しくないの? 介護士は本来、医師や看護師、理学療法士たちと同等に扱われるべき専門職なのよ。もっと介護職の重要性を真剣に訴えて行かないと、いつまでたっても社会で介護士は虐げられるのよ。あなたみたいないい加減な人たちが、介護士の地位を下げているのよ!」
 感情極まった様相で、そう言い放った。
 理穂はいつも、介護現場での医師や看護師、理学療法士達の役割と、介護士の立場や役割を対立的に考えて、比較して介護士の必需性、時には優位性までを裏付けようとした。そうしたい気持ちは、良く分かる。もっともだ。
 だけど理穂のそれは、介護に対する「誇り」というよりも、むしろ「コンプレックス」に感じられて、疎ましくて仕方がなかった。良くは分からないが、大切な事が、どこか少しずれているような気がした。現在の悲惨な介護現場の状況の中で、職種同士で優劣をつけるのに、何の意味がある。見るべきものは、職種や仕事内容、介護者側の立場じゃない。中で実際に生活している、お年寄りのほうだ。実際にそこで暮らすお年寄り達の生の叫び声に耳を傾け、寄り添い、理解し、改善することのほうが、どれだけ重要で、急務なことか。
 だけどそれを言いあって、お互い納得ができるような状態では、もはやなかった。こんな状態で付き合っていた事自体、今考えれば、不自然だったのかもしれない。
「ゴメン、言いすぎた・・・」
 冷静さを取り戻して、黙り込んでしまった俺に、理穂はそう言った。
 沈黙が、流れた。お互い、もう気持ちは決まっていた。
「こんな風に喧嘩をしようと思って、賢治を呼んだんじゃない。お互い冷静に、お互いの為に、これからを前向きに生きていくために、結論を出そうと思ったのよ」
 理穂は「結論を出そうと思った」という言葉を、強調した。その気持ちは、分かっていた。俺は、「うん」とだけ答えた。
「私ね、今、気になる人がいるの」
「え?」
 いきなりの言葉に、驚いた。理穂は冷静に、続けた。
「今私が行ってる実習先の、実習担当の人。二十六歳で、もう副主任も兼任しているの。仕事もテキパキ出来て、食事介助なんかみんなが二人やっている間に、三人くらいやっちゃう。『彼がいれば、仕事は絶対に早く終わる』って、みんなに頼られている人。切れ長の鋭い目をしていて、甘い事は絶対に言わない。責任感が強くて、常に厳しい態度で仕事に向き合っている。自分の介護観に信念を持っていて、いつも理想に燃えている人よ」
 褒めて言った全ての言葉が、俺にとってはどれもが反吐が出るくらい嫌悪感を持つ言葉だった。
 俺は半分あきれて言った。
「つまり、俺とは正反対の人って事だね」
「そうね」
 理穂も、きっぱりとそう答えた。
「疲れているのに、呼び出しちゃって、ごめんなさい。話は、これだけ。これからはお互い、自分の信じる道を、自由に生きていきましょう」
 そう言って、立ち上がった。
「さようなら、藤原くん・・・」
 俺も、答えた。
「・・・さようなら、大沢さん」
 理穂は、走り出した。
 足音は、戸惑うことなく、遠のいていった。
 思わず、振り返ってみた。
 だけど理穂は、振り返らなかった。
 躊躇することなく、小さくなっていく理穂の後ろ姿を、最後まで見届けた。
 静けさに、取り残された。
 遠くから聞こえる、楽しそうにはしゃぐ学生達の声だけが、遠い過去の記憶のように耳の奥に残った。
 俺は芝生に、仰向けになった。
 想像していたよりは、辛くは無かった。
 だけど俺の人生の一つの時代が確かに終わりを告げ、その実感が、客観的に全身に染み込んで行った。
 三年間の思い出をいっぺんにまとめて、秋の風に吹き飛ばした。
 俺は、放心した。
 秋の午後の穏やかな陽射しが、やけに目頭に沁みた。