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第五章 其々の思い 1話

 朝から空は青く、快速アクティーの車窓からは、寝不足が続いている俺の目には眩しいくらいに輝く、相模湾が見えた。久しぶりの見慣れた景色に、郷愁と言えば大袈裟すぎる、軽い懐かしさを感じる。
 海は、人の心を映し出すと言われる。
 気持ちが晴れているときに見る海は、この上なく広大で、青く、美しく、無限の希望を感じさせる。逆に沈んでいるときに見る海は、限りなく虚無で、灰色で、恐ろしく、終わりの無い絶望を感じさせる。
 今の俺は、辛うじて、青い無限の太平洋を見ている。
 何とか、頑張れそうだ・・・
 今日は帰校日で、久しぶりに、この前別れを告げられた「元彼女」とも、顔を合わせる。憂鬱だ・・・

 帰校日とは、実習中に一度、学校のゼミに集まって、報告反省会を行う日のことだ。
 俺の通う大学「神奈川県立医科大学」は、小田原にある。
 長谷から江ノ電に乗り、三十分程でJR藤沢駅に着く。藤沢駅から東海道本線快速アクティーに乗って更に三十分、進行方向に小田原城の白い天守閣が見えてくれば、小田原駅だ。小田原駅からは大学専用の送迎バスに乗り、十数分で着く。小田原城下町と海を見下ろす、山の上のキャンパスだ。

「藤原くん、おはよう」
 あまりにもあっけらかんとした挨拶に、肩透しを食った。笑顔まで、見せていた。
 昨日から身構えていた自分が、馬鹿らしく思える。しかし、「藤原くん」と余所余所しく呼んだ辺りに、彼女の気持ちが既に読み取れた。少しでも気持ちが残っていれば、「賢治」と呼んだはずだ。
「おはようございます、大沢さん」
 俺も余所余所しくそう応えてから、少し離れた席に着く。
 理穂に会うのは、三週間ぶりになる。考えて見れば、まだ三週間ちょっとしか経っていないのだ。何だか、ずいぶん長い間、会っていなかったように感じる。
「元彼女」の名前は、大沢理穂という。
 この子はうちの学科でも誰もが認める、超美形だ。モデル並みに容姿が素晴らしいのは当然の如く、社交的で人当たりが良く、成績もずば抜けて良い。その上英語、フランス語ぺらぺらの帰国子女だ。「完璧すぎる」と敬遠する奴もいるが、俺は学科中の男に羨ましがられていたと言っても過言ではない。こんな不器用で堅物の俺が、どうしてこんな美形の彼女と付き合うことが出来たのか、学科の七不思議の一つに数えられていた。
 いつもなら並んで座るはずの俺達が、随分余所余所しく離れて座った事に、既に敏感な女子達がひそひそ話をしているのが分かる。気にせず、俺はゼミの準備を始める事にする。
 うちのゼミは人数が少なく、十一人しかいない。と言うより、学科全体の学生数が少ないのだから、これはうちのゼミに限ったことではないのだ。
 だから反省会もグループ分けなどもされず、全員で机を四角く作って対面会議形式で行われる。
 準備をしているうちに、教授が不機嫌そうな顔付きで入ってきた。朝は、いつもこうだ。入ってくるなり「始めるか」と一言だけで一角に座る。ぶっきらぼうで、有名なのだ。
 俺としても、とっとと始めて早く終わりにしてもらいたいから、ちょうど良い。
「じゃあ、誰からやる?」
 教授のその言葉に、理穂がすぐに「はい」と手を上げた。相変わらずだ。
「よし、大沢から時計回りに発表してもらうか」
 理穂はすっと立ち上がると、流暢に発表を始めた。

 理穂の介護への情熱は、入学当初から並じゃなかった。
 誰よりも熱心に講義を聴いていたし、積極的に質問もしていた。講義が無ければ図書館に入り浸り、介護の専門書を読み漁っていた。定期的に、介護施設へボランティアにも通っていた。
 こんな一見介護マニアのような理穂の情熱には、実は訳があった。
 理穂は小学高学年から中学卒業までの間、親の仕事の関係で、カナダに住んでいた。しかし帰国後、日本の学校での経験が少ない理穂は、高校ではあまり友達ともなじめず、孤立して、成績もはっきり言って良くなかったらしい。一時期、登校拒否にもなりかけたという。同級生達は帰国子女という立場を羨んだが、その肩書きを背負う理穂にとって、さえない高校時代は、コンプレックス以外の何物にもならなかった。
 しかしその辛い高校生時代に、コンプレックスを跳ね返し、自分の将来の目標とさえなった出会いがあった。それが「介護」だった。
 夏休みの課外授業の一環で、社会見学として介護施設に一週間のボランティアに行ったらしいのだが、そこでのお年寄りとの関わりや、介護職員達との交流の中で、「介護の仕事の尊さ」に心を打たれたらしい。しかも典型的な核家族で育った理穂にとって、生まれて始めて体験するお年寄りとの親密な関わりは、とても新鮮な感動を与えたようだ。
 それからもう一つ、彼女にこの道を選ばせた決定的な理由があった。
 それは、介護の仕事は専門職だから、専門校に入ってしまえば授業のほとんどが専門科目になる。つまりコンプレックスだった高校時代の数学や社会などの一般教科の成績など関係なく、誰もが同じスタートラインから始めることになる。それは高校入学と共に消沈したモチベーション回復の、絶好の要素となった。
 かくして理穂にとって「介護」は、社会的に尊い仕事というだけではなく、自分の人生の再起を掛けた、正に「天職」と成り得たのだった。

 発表は、退屈に続く。
 俺の発表は、当たり障りの無い、適当なものだった。じいちゃんや板子乗りの事は、一切触れていない。極めて薄く、簡単に聞こえただろう。
 ディスカッションという名目のはずだが、俺を含め、意見を言う学生などほとんどいない。理穂が時々的確な発言をして、皆を唸らせるくらいだ。教授は発表が一巡するまでは、ほとんど喋らない。
 このぶっきらぼうな教授は、無口だが、経歴は素晴らしいらしく、著書も有名だ。認知症研究の、権威とも言われている。大学でも、学生や他の教授たちからも尊敬を集める人物だが、俺は今ひとつ、納得いかない部分もある・・・
 その話は前にも少し触れたが、いずれ機会があれば、もう少し踏み込んでするとして、とにかくただでさえ寝不足気味で瞼が重いというのに、発表者たちの子守唄の如き発表も相まって、このまったりとした時間が、催眠術でも仕掛けてくるように俺を苦しめる。図らずも、この催眠術にまんまと掛かってしまったのは、言うまでもない。
 帰校日のゼミは、だいたい午前中で終わる。簡単なものだ。
 俺はこんな簡単で退屈なゼミに参加するために、わざわざ一時間半も掛けて登校して来たのだ・・・

「藤原くん、話があるんだけど、いい?」
 退屈なゼミから開放されてホッと安堵していたら、理穂に呼び止められた。
 理穂のその言い方に、俺は直感した。最終勧告の、到来だ。遂に、印籠が出される時が来たか。メールで一方的に別れを切り出されて以来、まだ決着を付けていなかったから、「話がある」などといったら、もはやその事くらいしか思い当たらない。
 俺たちは教室を出ると、階段を降りて、校舎の外に出た。
 いつもの海の見える芝生の斜面には、乾いたすがすがしい風が吹いていた。
 秋らしい、少し肌寒い風が、芝生の広場の真ん中に植えられた大きな銀杏の葉を、まるで吹雪を降らせるかのように散らしていた。
 いかにもキャンパスライフの一風景というように、あちこちで青春真っ盛りといった風情の男女やグループ達が、楽しそうにしている。
「随分、堂々と居眠りをしていたわね」
 並んで座っていた理穂が、口火を切った。
 ちょっと前なら、もう少しはかわい気のある言い方をしただろう。もはや冗談で言う皮肉ではなく、完全な非難に聞こえる。
「うん・・・、寝不足が続いてるからね」
 辛うじて作った俺の笑顔に、反応を返さない。
 しばらくの、沈黙が流れた。
 この芝生の広場は、俺たちの思い出の場所でもある。
 俺が告白をして、付き合うことになったのも、ここだった。
 こうして並んで座って、ある日は楽しく冗談を言い合い、またある日は理穂の作った弁当を食べ、見下ろす小田原の町並みが夜景に変わるまで熱く語り合った。ずいぶん、喧嘩もした。
 久しぶりに座るこの場所と理穂の横顔が、思い出を甦らせる。
「賢治は、本当に変わってしまった・・・」
「賢治」と言った理穂の目が、なんとなく涙ぐんで見えて、言葉を失った。
「昔の賢治は、もっと情熱的で、一生懸命で、何事にも真っ直ぐだった・・・」
 そう言って、顔を俯かせた。
 何も、答えられなくなった。一方的に非難されて終わるのかと思ったら、理穂は、涙ぐんでいる。どうしたら良いのか、分からなくなった。
「違うんだよ・・・」
 間を置いて、俺はそう言った。
「え?」
 理穂は、顔を上げた。
「俺は、理穂に、謝らなきゃいけないんだ」
 唐突に言った俺の言葉に、理穂は不安と驚きを合わせたような顔をした。
「どうして?」