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第二章 出会い 5話

「ただいま」
 昨日より少し遅く、家に着いた。
 いつものように家に入ると、母親の姿が見えない。そう言えば玄関の土間に、母親のサンダルが無かった。
 居間に入ると、隣のばあちゃんの家から、怒鳴り声が聞こえてきた。ばあちゃんの家と俺の家は一部繋がっているが、壁一枚で繋がっているその部分は、この居間なのだ。だから隣でちょっと大きな声で話そうものなら、同じ家に住んでいるのと同じくらいにその声は筒抜けだ。しかも母親のこの声色から、大喧嘩になっているのは、火を見るよりも明らかだった。
 俺はまた、憂鬱な気分になった。この二人が喧嘩を始めると、そう簡単には終わらない。俺か兄貴が仲介にでも入らない限り、文字通りどちらかが倒れるまで続く、エンドレスのデスバトルとなる。今の体調を考えると、互角か、もしくはぎりぎり、先にぶっ倒れるのはばあちゃんの方か。そんなことにでもなれば、ますます厄介なことになる。
 俺はしぶしぶ、ばあちゃんの家に向かうことにした。
「賢治だよ! 入るよ!」
 玄関の前でそう叫んでから、家に上がる。入ってすぐ左側の部屋に、二人を見つけた。舞台は、リビングだ。覚悟を決めて、入っていった。
「賢ちゃん、聞いておくれよ・・・」
 人の顔を見るなり、先に弱音を吐いたのは、ばあちゃんの方だった。今日はばあちゃんが、押され気味らしい。しかしいきなり弱音を吐くとは、この二人、既にかなりの長期戦を戦い抜いていたと見える。
「先に言っておくけど、俺は今日は日誌を書くのに忙しいから、あんまり長くは付き合えないよ。簡潔に頼むよ」
 強い口調で、先に釘を刺した。
 しかし二人は、その言葉に消沈したように黙ってしまった。よほど精根尽き果てるまで戦っていたのだろう。しかしこれでは逆に、余計に時間が掛かってしまう。
 しぶしぶ、自分から切り出した。
「いったいどうしたんだよ・・・」
 その言葉に、先に乗ってきたのは、ばあちゃんの方だった。
「この前、賢ちゃんにも、少し話したことだよ」
「ああ、デイサービスのことか・・・」
 話が長引かないように、気の無い返事をした。しかしすぐに助けを求めるかのような表情で、母親が食いついてきた。
「おばあちゃんが、どうしてもデイサービスに行かないって、駄々捏ねるのよ」
 母親のその言い方が気に食わなかったようで、ばあちゃんはすぐに大きな声で口を挟んだ。
「駄々捏ねるなんて馬鹿にしたような言い方、しないでちょうだい! 何度も言ってるだろう、正当な理由があるんだよ!」
「そんな理由、正当でもなんでもないわよ!」
「二人とも、いい加減にしてくれ! 行きたくないなら行かなくていいじゃん! 義務じゃないんだから!」
 しかしその言葉に、今度は俺を責めるように母親が強い口調で吐いた。
「ダメよそんなの! ダメにきまってるじゃない!」
 有無を言わせないその言い方に、一瞬の沈黙が流れた。
 母親はその空気を察したようで、少し申し訳なさそうに声のトーンを落として続けた。
「おばあちゃんには、いつまでも元気でいてもらいたいの・・・ 何でも自分で出来る身体でいてもらいたいのよ・・・」
 そしてまた少し声色を上げて、
「それには毎日のリハビリがとっても大事なの。それは賢治だって良く知っているでしょ?」
「まあね・・・」
「それなのに、私の気持ちも知らないで、まるで私がただおばあちゃんに嫌がらせしているみたいな言い方されて・・・」
 母親は、めそめそと涙を流し始めた。
 しかし、この涙に騙されてはいけない。母親お得意の泣き脅しだ。
 この技はばあちゃん譲りで、時が時ならば、ばあちゃんも得意として繰り出す。
 こんな小技にいちいち振り回されていたら、この二人の喧嘩は収拾が付かない。ここはあくまでも、中立を守らねばならない。
「それはあんたの自己満足だよ。当人のあたしが嫌だと言っているんだから。あたしはこの歳まで、散々苦労して生きて来たんだ。八十年以上だよ? もういい加減勘弁しておくれよ。あとはもう楽に生きて、早く死なせておくれ・・・」
 ばあちゃんも母親の泣き脅しには、全く動じない。突き放すような言い方で、応戦した。
 だけどその言葉に、母親の表情が激変した。
「『死なせてくれ』なんて、口が裂けても言わないでちょうだい! 人の死を、そんなに軽々しく口にしないで!」
 顔から血の気が引き、人間の暖かさを全て蒸発させたようなこの表情になるとき、母親は本気だ。もう、泣き脅しじゃ済まされない。ばあちゃんは、とんでもない墓穴を掘っちまった。
 だけど母親がそこに過敏になるのは、当然なのだ。母親の旦那、つまり俺の親父は、早くに病死している。しかも母親はそれを、病院の医療ミスだと疑って止まない。
 医療ミスとは言い過ぎにしても、母親は、病院側が自分の望むような積極的な延命治療をしてくれなかった、まだ命を繋げられる可能性が残っているうちに、治療を諦めたと、いまだに病院を恨んでいる。俺が物心付いた頃には父親はもう他界していたから、それがどんな経緯だったのか、詳しくは知らないが、その一件が母親のトラウマとなり、ばあちゃんとの衝突を激化させているのは明白だ。
「人間は、どんなことがあっても、生きる意欲を捨てちゃいけないの。どんなことがあっても、『生きる』という使命を、放棄することは許されないのよ!」
「・・・・」
 ばあちゃんも、母親のトラウマは、良く知っている。自分の言った一言が、娘にどんな思いをさせたか、すぐに察したんだろう。俯いて、黙ってしまった。
「もういいから、母さんは家に帰れよ・・・」
 俺が、そう言うしかなかった。
 母親はゆっくり立ち上がると、涙を拭きながら、リビングを出て行った。
 リビングに、しばらくの沈黙が流れたが、ばあちゃんが一つため息を吐いた後に、呟いた。
「あの子が言うように、人の命は確かに大切だよ・・・ それは分かってるんだ・・・ あたしの旦那だって、生きたくても生きられない宿命を背負わされて、無念に死んだんだからね・・・」
 その話は、幼い頃からなんとなく聞かされていた。ばあちゃんの旦那、つまり俺のじいちゃんは、ばあちゃんが俺の母親を生む前に、太平洋戦争で戦死しているらしい。
「あたしだって、あの子が言うように、いつまでも元気でいなきゃいけないと思っているよ。自分が何も出来なくなって、子供に世話になりたいと思う親がいるわけないだろう。自分のために子供が苦しむのが平気な親が、どこの世界にいるっていうんだい・・・」
 ばあちゃんが言うことにしては、珍しく説得力がある。
「そうだね、だけどだったら、ちゃんとそう言ってやれよ、母さんに」
「・・・・」
 ばあちゃんに、そんなことが言えるわけがない。それが言える親子なら、最初からこんなお互いの精神をすり減らすような喧嘩にはならない。それは俺も、分かってる。
「親なら誰だって、自分の事よりも、子供に自由に生きて行ってほしいと思う。自分が寝たきりになって、子供の自由を奪うくらいなら、あたしは自ら命を絶つわ。そのくらいの覚悟は、出来てるよ」
 ばあちゃんの言うことは、いつも過激だ。
「またそんな事言ってると、母さんに怒鳴られるぞ」
 俺はそう言って立ち上がり、リビングの出入り口まで歩いた。そして振り返って、
「今日はもう遅いから、ばあちゃんも休みなよ」と言って出た。ばあちゃんも「そうだね、そうするよ」と言ってゆっくりと立ち上がると、俺の後をついてきて、玄関で靴を履く俺に言った。
「賢ちゃん、ごめんよ。いつも本当に世話を掛けるね」
 そう言ったばあちゃんの目は、なんとなく潤んで見えた。
「・・・おやすみ」
 一言そう言って、ばあちゃんの部屋を出た。
 
 
 
 俺はすっかり遅くなった夕食を簡単に済ませると、自分の部屋に上がって行って、勉強机の上に日誌を広げた。しかし椅子に座り込んだまま、文章を書く気力など、まったく湧かない。
 なんとなく、ぼんやりと窓の外を眺めた。
 窓の外には、真っ暗な空しか見えなかった。
 ふと、工藤さんのことが、頭に浮んだ。
 工藤さんなら、さっきの母親とばあちゃんの喧嘩を、どう思うだろう。工藤さんは、どんな人生を生きて来たんだろう。あの涙は、いったい何だったんだろう。そして、イタコノリって・・・
 工藤さんは、良くも悪くも、本当に人間臭い人だと思った。と言うか、いかにも昔の日本人らしい気質を持った、懐かしさすら感じる人だと思った。
 表情を見せず、頑固で、だけど涙もろい。あんなにも甚平が似合っていて、いかつい容姿といい、正に日本のじいちゃんだ。
 そうだ、じいちゃんだ。「じいちゃん」と言う呼び名がピッタリだ。
 なんだか急に、工藤さんに親近感を覚えて、嬉しくなった。
「じいちゃん・・・」
 口に出して、言ってみた。なんだか、嬉しかった。
 決めた。これから実習が終わるまで、俺は工藤さんのことを、心の中では「じいちゃん」と呼ぼう。そう考えたら、わくわくしてきた。そしてなんだか今日の日誌も、楽しんで書けるような気がしてきた。
 俺はペンを持って、日誌に向かった。今日の日誌は、長くなりそうだ。
 嬉しい覚悟を決めて、日誌を書き始めた。