HOME > 連載小説

 下の絵をクリックして拡大

第一章 実習、始まる 2話

 フルネームは川島秀司。三十二歳。介護経験七年の、特養介護主任だ。
 この施設では、主任が実習生を担当するらしい。
「さて、今日一日を振り返って、何か感じた事を話してくれるかい?」
 唐突に、本題に戻した。
 その言葉に、一応考えるしぐさをしてみたが、抜け殻のようになった俺に、すぐに出てくる体裁の良い言葉など、あるはずも無かった。
「相変わらず、現場は悲惨ですね・・・」
 口を吐いて出てきた言葉は、単純に、さっきまで味わっていた絶望的な感情だった。
 川島さんは一度少し残念そうな表情になったが、すぐに優しい目で少しだけ微笑んで、「そうですね」と、あっさりと答えた。
 その温和な言い方に、正直、驚いた。
 実習生がいきなりこんな生意気な一言を言おうものなら、大抵の実習担当者は見る見るこめかみに血管を浮かび上がらせて逆上する。俺は過去の実習で、自分の気持ちを正直に口に出しすぎて、どれだけ怒鳴られ、疎まれ、気まずい思いしてきたことか・・・
 しかし今回は、どう言う訳だ。怒鳴られるどころか、笑顔まで見せられた。俺はそれに戸惑いながらも、歯止めを失ってしまったのだ。
「施設での介護は、絶望的に感じます。利用者の皆さんは流れ作業のように扱われ、だけど職員さんたちも限界で・・・ 終わりのない、悪夢でも見ているような気持ちになります・・・」
 その言葉に、川島さんは一度ため息にも似た声で「その通りだね・・・」と呟くと、残念そうな表情で俯いた。
 その表情に、思わず罪悪感すら覚えた。本当なら、青筋立てて怒鳴られても良いところを、俺のこんな酷い言い方を否定せず、冷静に、受け止めた。
 川島さんはその残念そうな表情から、徐に顔を上げて言った。
「では、どうしたらお年寄りの生活を、もっと良く出来ると思う?」
 突然、質問をしてきた。穏やかで、冷静な質問だった。こんなに冷静に質問をしてきた実習担当は、今までいなかった。
 しかし、困った。俺は今まで、介護に数々の疑問や絶望を感じてそれを実習担当者や職員達にぶつけて来たが、いざ逆に「じゃあ、どうしたら良いか?」などと訊かれると、言葉が何も出なかった。
 傍から遠巻きに介護を眺めて、ああだこうだと酷評して、勝手に絶望を感じて、結局一番肝心な、「なら、どうしたら良いのか」を考えることを、して来なかった。
 今までの自分の身勝手さを、目の当たりにさせられたように感じた。
「・・・せめて職員の人数が、あと少しでも増やせれば良いと思うんですが・・・」
 結局、介護を専攻している学生にしてはあまりにもお粗末な返答しか出来なかった。だけど川島さんは、そんな俺を特に蔑む様子もなく、また冷静に答えた。
「そうだね、誰でもまずはそこに行き着くよね。職員の人数は、圧倒的に少なすぎるよね」
「職員を募集して、全体の人数を増やすことは、出来ないんですか?」
 またしても、あまりにも素人的な質問をしてしまった。
「出来なくは、ない・・・ だけど利用者定員に対しての一日の出勤人数は、国の基準で言えば、これでもわりと恵まれた数となるんだよ。つまり国の基準上、 職員人数は『足りている』ということになる。信じられないだろ?」
国の基準が、いかに現状にそぐわないものかが、良く分かる。
「介護施設は、利用者定員で収入が決まってくる。だから利用者の人数が変わらずに職員の人数だけを増やしていくことは、収入は変わらずに人件出費だけが増えることになる。ただでさえ介護施設はどこも経営が厳しいから、そんなことが出来る施設はないよ。あるとすれば、それは高級有料老人ホームくらいだね」
「そうなんですか・・・」
「それにもし施設がその人件費の自腹出費を覚悟してでも職員を増やそうと思ったとしても、実は今、いくら募集をかけても、職員が集まらないんだよ」
 そう言って、川島さんはまた表情を曇らせた。
今、介護職員は慢性的な人材不足に陥っている。介護が必要な高齢者が増え、国が介護施設を乱立させているけど、建物が増えれば増えるほど、そこで働く職員が必要になる。だけど逆に、介護の仕事に就こうとする人は、減っている。うちの大学でも、介護福祉課の学生は定員の半分にも満たない。更に最近では、学生が集まらず、閉鎖される介護専門学校が後を絶たないという。
「しかも介護職員の離職率がものすごく高いのは、知っているよね?」
 それは巷でも、有名な話だ。
 何しろこのために国は、海外から人材を呼び寄せる政策をとったくらいだ。それにしても、その政策にも、疑問を感じる。
 介護施設の雇用環境の改善に手を付けず、人が足りないからと単純に海外から人材を集めるなんて、まるで日本人がやらない辛くて賃金の低い仕事を、とりあえず外国人にやらせておくというような、考えようによっては差別的ともとれる発想ではないか。一方では国民にただカネをばら撒いたり、選挙のために出来もしない夢のような公約を言ってみたり、そんな胆略的で目先のことしか考えられない日本の政府は、まったく腐っているとしか思えない。
「これだけ絶望的に仕事がきつい上に、給料は一般企業の三分の二程度でしかないんだから、離職して、当たり前だよね。しかも資格を持っている人の再就職率、つまり一度離職して、次にまた同業種に就職する復帰率が、介護職は他の業種に比べて、極めて低いらしい」
 介護の仕事と言うのは、一度辞めたら、もう二度と戻りたくなくなるってことだ。
「そしてこの環境の悪化は、頑張って残っている職員の精神もすり減らす。身体は疲労し、心は磨り減り、職場は殺伐とし、お年寄りの介護に悪影響を及ぼす。せっかく志高く就職してきた若い職員達も、その現状に耐えられなくなり、精神を病んで辞めていく。悪循環の輪廻は、終わりなく続く・・・」
「やっぱり、絶望的ですね・・・」
 俺は溜息と同時に、そう結論付けたような言い方をした。
 ただでさえモチベーション最低で臨んだこの実習が、もう今日で辞めにしたいくらいの気分になった。明日にでも大学に中退届けを出して、いっそ本当に漁師にでもなっちまったほうが良いかとさえ思った。まったく、とんだ貧乏くじを引いたもんだ。
「だけど、だからと言って、それを理由にこの惨状を、放っておいて良いわけがない・・・」
 突然、消沈する俺の心に平手打ちを食らわせるような、静かな中にも決意を秘めた強い口調で、川島さんは言った。
 思わず、川島さんの顔を見た。その目は、まっすぐに俺を見ていた。
「では、話を戻そう」
「え?」
「もう一度質問しよう。今、この惨状を改善するために、何が出来ると思う?」
 これだけ徹底的に絶望的な話をしてきたのに、また振り出しに戻すような質問をしてきた。その意図が分からなくて、戸惑った。
「悪循環の輪廻は、終わりなく続くんじゃないんですか・・・?」
 俺のその言葉に、畳み掛けるように言った。
「いや、それを終わらせるために、どうしてもやらなければならない、大切なことがある・・・」
 川島さんは、「大切なこと」という言葉を強調した。
 その強い視線と、決意に満ちた表情に、俺はまるで蛇に睨まれた蛙のように固まった。答える言葉など、何も出てくるはずがなかった。
「それを考えるのが、藤原君の、今回の実習の課題だ」
 急に頬を緩めて、優しい笑顔で、そう言った。
 唐突に、課題を突きつけられた。俺は困惑に、ますます言葉を失った。
「答えは、簡単には出てこないと思う。私もまだ、模索しているのだから・・・ だけど諦めずに、一生懸命考え続けてほしい。考えなくなってしまったら、おしまいなんだ。今日のように、絶望的になることも、沢山あると思う。だけどそれをただ『辛いこと』『嫌なこと』として終わらせてしまわずに、考えるきっかけにしてほしい」
 その目に、その話に、引き込まれた。
「私は介護主任になって、二年目になる。一年目は、主任と言うものに慣れる事で精一杯だった・・・ だけど慣れていくにつれて、これまでの介護のやり方や、今まで気になっていたことを、改善していきたいと思うようになった。いや、改善しなければならないと、強く思った」
「改善、ですか?」
「そう。人材が不足しているとはいえ、私はこの仕事は、手があれば誰でも良いと言うわけには、絶対にいかないと思っている。介護の仕事は、お年寄りの生活や健康を守ると言う、とてもデリケートで、且つタフな仕事だ。人の痛みの分かる、とても繊細な感性が必要なんだ。私は職員の人数よりも、むしろ一人一人の「質」がとても大切だと思っている。それを育てるのが、私の仕事だ。そしてその「質」の素地を持っている若い学生を見つけて、育てるのが、私の仕事なんだ」
 職員を育てると言った。学生を、育てると言った。今まで、聴いたことがなかった。
 それまで学生や新人職員にダメ出しをしたり、厳しく評価を下したりする実習担当者やベテラン職員は見てきたが、自らが育てるのが仕事だと公言して志を示した人に会ったのは、初めだった。
「藤原君が初日にもかかわらず、『現場は悲惨だ』と言ったとき、嬉しかったよ。綺麗事ではなく、この惨状に、きちんと目を向けた。それが、嬉しかった。藤原君は、この問題に、しっかり向き合っていける学生だと感じたよ」
 俺は、放心した。心の底から、驚いた。「現場は悲惨だ」と言ったことを、褒められた。こんなことって、有り得るのか。
 これまでの、介護技術や業務を徹底的に叩き込まれ、余計なことは「言わない」「考えない」、所謂俺の大嫌いな「使える職員」を作り上げる実習が、当たり前なのかと思っていた。だから、介護に嫌気が差し、諦めていた。
 なのに、なんだこの展開は。
 思わず、半信半疑で応えた。
「ありがとう、ございます・・・ 何だか分からないけど、とにかく頑張らなきゃいけないんだって、そんな気持ちになってきました・・・」
 俺のその催眠術にでも掛かったような言い方に、川島さんはまるで子供みたいな無邪気な笑顔になって「そうですか、そう言ってもらえると、私も嬉しいです。ありがとう」と言った。
 なんだ、この人は・・・ なんなんだ、この気持ちは・・・
 彼女に振られ、介護にも嫌気が差し、絶望して、まったくモチベーション最低でこの実習を迎えたはずなのに、俺は何だかいつの間にか、久しぶりに感じる 心の躍動に、掌に汗を滲ませている。自分でもおかしくなるくらい、単純に、何か漠然とした期待に、胸が膨らんでいる。
 笑い出したくなるくらい、驚いた。
 そうだ、俺はこの施設で、この人のもとで、介護の実習をするんだ。
 それがこの上なく、幸運なことに思えた。