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第一章 実習、始まる 1話

窓の外には、海が見えた。
風は無く、所謂「凪」と言うのだろうか。
みなもは鏡のように、平らに見えた。
鏡面に張り付いたようにぴたりと静止した大小さまざまな漁船が、気持ちよさそうに、浮んでいた。
今日みたいに穏やかに日は、さぞかし快適な漁が出来るだろう。
漁師も、悪くないかな・・・
などと、船上で網を引く自分の姿を、想像してみた。
「凪」は、海面と陸上の温度が同じになって、風が止まった状態の事を言うのだそうだそうだが、そんな自然現象など、俺にはどうでも良いことだ。
 単純に、窓の外から注ぎ込む太陽の光はぽかぽかと暖かく、そこから見える鏡のような海が、真っ青な空をキラキラと反射させて、とにかく綺麗だった。
「あの、便所に行きたいんだけど・・・ 連れて行ってはもらえんかね」
 ボケッと窓の外を眺めていたら、突然、声を掛けられた。
 ハッと我に返って、声の聞こえた方を見た。
隣で車椅子に座り、食事を取っていた利用者だ。真珠のように輝く美しい白髪の、上品そうな老婆だ。
弱冠の麻痺があるのか、なんとか自分でスプーンを持ち、震える手で食べ物を口に運んでいたが、少し前から手が止まり、あきらめに似た表情で呆然と遠くを見ていた。今は羞恥心に満ち、だけど切実な、懇願するような目で俺を見詰めている。
 こんな目で見られたら、俺も弱い。しかし別の利用者の食事の見守りを言いつけられているし、何より実習生という立場上、勝手なまねは出来ない。
 急いで辺りを見回して、職員を探した。
「すみません、この方が、『御用事』に行きたいとおっしゃるんですが・・・」
 少し離れた所で、ペースト状にされた粥をスプーンですくい、利用者の口に運んでいた職員に声を掛けた。因みに『御用事』とは、施設内で使う、トイレの隠語だ。
 遠慮した声でそう言ったが、職員は困ったような、ストレートに言えば、面倒臭そうな表情をして応えた。
「今、介助していて手が離せないの、分かるでしょ? 待っていてもらうように言ってもらえないかな」
 その口調が、職員の苛立ちをストレートに伝えて来た。
 仕方なく、「すみません、職員さんは今手が離せないようなので、ちょっと待っていていただけますか?」と、利用者に言う。
 しかし多少の認知症があれば、職員だとか実習生だとか、そんなこちらの都合など、理解は出来ない。どうしてあんたが連れて行ってくれないの? とでも言いたそうな、明らかに納得のいかない表情になった。
 この広いロビーに、食事介助を待っている利用者は、ざっと二十名はいる。対して介助をしている職員は、四名しか見当たらない。他の職員は、部屋で食事をする利用者の介助や、部屋やトイレから半自立者が呼ぶコール対応に追われている。
 別の場所から、「早くご飯を食べさせて!」との声が上がる。
 更に別の場所からは、食事の終わった利用者が「お姉さん! もう部屋に戻りたいの。早く帰してちょうだい!」と、大きな声を出す。そして遂には「どうしたらいいの! 助けて! どうしたらいいの! 助けて!」と大声を繰り返す利用者まで出てきた。どうやら一人が声を出し始めると、不安の連鎖が始まるらしい。職員四名では、とても対応しきれない。何も出来ない俺は、絶望の淵に立たされる。
 俺に声を掛けた利用者が、叫んだ。
「お願い! 早くごふじょうへ連れて行って!」
 それを聞いて、近くにいた職員があからさまに舌打ちをして、食事介助を中断して立ち上がった。そしてすごい形相で近寄って来たかと思うと、俺に声を掛けた利用者の車椅子の取っ手を乱暴に握ると、無言でロビーから連れ出した。
 あっけに取られて見ていたが、それで終わりではない。
俺が食事を見守っていた利用者が、急に真っ赤な顔になったかと思うと、身体を大きく震わせて激しく咽はじめた。まるで食べたものを全部もどしてしまいそうな勢いで、奈落の底から聞こえてくるような物凄い声を上げて、唾液をだらだら垂らしながら窒息寸前の苦痛の表情で咳き込んでいる。ゼエゼエと息をしながら、ぎりぎり「助けて・・・ 助けて・・・」と声を漏らした。
恐怖に、一瞬身動きが取れなくなった。が、思わず、その人の背中を叩いた。
「ばか! 咽ている人の背中を叩いたら、せっかく出てきた残渣物がもどっちゃうじゃない! 叩かずにさすって!」
 遠くの職員が、怒鳴りながら近寄ってきた。
「詰まったときに叩くの。咽ているときは叩かないで! こうならないように『見守って』ってお願いしたのよ! ただボッと座ってるだけじゃダメじゃない! まったくどうしようもないダメ実習生ね! 吸引しに医務室に連れていくから、もういいから下がって!」
 俺はすごすごとその場を退く。悶絶する老人が二人の職員に抱えられて連れ出されていくのを、見ているしかない。もう、泣きたくなった。
 俺はでくの坊のように、ロビーの隅に立って見渡した。
 職員たちは、時計を気にし始めた。介助の手が、早くなっていくのが分かる。昼食時間の終わりが、迫っているのだ。
 時間が遅れれば、次の業務に支障が出る。業務スケジュールの都合で、食事を詰め込まれるように食べさせられ、口から溢れるペーストも、拭き取る様子が無い。汚れ放題の口に、次から次へと食べ物が詰め込まれる。見ているのさえ、辛くなってきた。
 さっきの利用者の排泄介助から戻った職員も、ロビーの入り口脇に掛かっている時計を一度チラッと見たかと思うと、食事介助には戻らず、済んでいる利用者をロビーから連れ出し始めた。ロビーに残った職員の一人は立ち上がり、食事介助の手をますます早める。もう一人が終わった利用者をロビーの出入り口付近に移動させ、順次居室へ連れて帰る。同時に、トイレの要求のあった利用者の排泄介助も行う。まるで、流れ作業だ。
 初日から、相変わらずの絶望的な光景を、目の当たりにさせられた。
気が遠くなりそうだ・・・
しかしこれが、現代日本社会における、施設介護現場の実情なのだ。



「藤原、賢治くん」
すっかり消沈して、放心していたら、名前を呼ばれた。
しかもフルネームで、少し、強い口調だった。
急いで顔を上げて、辛うじて、「はい・・・」と返事をした。
名前を呼んだのは、実習担当の、川島さんだ。
夕方、俺は川島さんと、一日の反省会をやっていた。
「大丈夫かい? 初日で緊張して、疲れた?」
 少し柔らかな言い方になって、気遣うように、川島さんはそう言った。
 しかし、別に緊張していたわけじゃなかった。むしろ絶望していて、やる気もなくなっていたと言ったほうが良い。
「すみません・・・ 大丈夫です」
 投げやりに言った頼りなげな返事に、川島さんは少し、表情を曇らせた。
今回、この施設での実習生は、俺一人。因みにここは、特別養護老人ホーム「海の見える丘」と言う、長ったらしい名称の介護施設だ。特別養護老人ホームを略して「特養」という。
 誰もいない、広いロビーの隅っこで二人だけで向かい合って座っているのだから、目の前の俺がこんな「心ここにあらず」といった表情でボケッとしていれば、川島さんが怪訝そうな表情になるのも、当たり前だ。
悪い印象を与えちまったかなと、少し心配になった。
仕方なく、気を取り直して、姿勢も正した。
「すみません、本当に、大丈夫です」
 今度は表情を整えて、はっきり、きっぱりとそう言った。俺はきちっと表情を整えると、図らずも実に真面目な青年に見られる。それを昔から、良く知っている。
 幼い頃より、「真面目そうな子だね」と、褒められてきた。小学一年生から高校卒業まで頑張ってきた剣道では、弐段を持っている。短髪で、目はわりとキリッとしていて、古風な顔立ちではあるが、自分で言うのもなんだが、意外と「男前」と言われることが多い。
 しかし自分では、ポーカーフェイスが上手いのだと知っている。やる気の無い心根を、上手く隠すことが出来る。
 案の定、川島さんも俺のその言葉と表情に安心したようで、怪訝そうな表情を緩めて言った。
「そうですか、なら、良かった」
 そして窓の外に視線を移して、続けた。
「確かに、実習初日と言うのは、体力的にも、精神的にも疲れ果てるよね。誰だって、放心してしまう」
 川島さんの話し方は、とても穏やかだった。それだけで、過去の実習で当たった威圧的な実習担当者たちとは、どこか違う人間味を感じた。
 川島さんとは、一週間前に行われた事前オリエンテーションで既に話をしているが、その時から変わらない柔らかい物腰は、この絶望の淵から、少しだけ俺を救い出してくれる。