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第七章 別れ 2話

 立ち上がった。
 体は勝手に動き出し、無意識のうちに、上着をはおった。
 一階に降りて行って、居間にあるばあちゃんの家の鍵を握ると、ばあちゃんが寝ている離れに、走った。
「こんな時間に、いったいどうしたんだい?」
 夜中に急に訪ねて来た俺に驚いて、おばあちゃんがベッドの上で、そう言った。
 ばあちゃんが眠っていなかったのは、幸運だった。
「時間がないんだ! とにかく急いで、これを着てくれ!」
 そう言って上着を投げるように渡すと、「車のキーはどこ?」と訊いた。
「机の一番横広の引き出しだよ。だけど賢ちゃん、何がしたいんだい?」
 乱暴に引き出しを開けて、ビートルのキーを握ると、車椅子をベッドの脇に付けて、怒鳴るように言った。
「詳しく説明している暇は無いんだ。だけどとにかく、武次郎さんは、生きていた。今からばあちゃんを、連れて行く。だから早くしてくれ!」
 ばあちゃんは、突然現れた亡霊でも見るような目で、俺を見た。
「賢ちゃん・・・ あんた、寝ぼけているんじゃないかい?」
 そう言って、戸惑いながらも、よろよろとベッドから車椅子に移った。
「寝ぼけてないよ。正真正銘だ。メチャクチャな事を言ってるように聞こえるだろうけど、頼むから俺を信じてくれ」
 そう言って、ばあちゃんの目の前にしゃがんで、目線を合わせて言った。
「これからばあちゃんを、武次郎さんに合わせる。武次郎さんは、もう数分の命だ。それでも、いいかい? 会いたいかい?」
「・・・何がどうなってるのか、この老いぼれ頭じゃ、なんにも分かりゃしないよ・・・ だけどあたしだって、もういくらも命が無いんだ。どうなったって、いい。賢ちゃんを、信じるよ。あんたの思うように、しておくれ・・・」
「分かった・・・ ありがとう」
 ばあちゃんのその言葉が、少しだけ、俺の背中を押してくれた。
 ばあちゃんをビートルの助手席に乗せると、運転席側から後席に折りたたんだ車椅子を無理矢理突っ込んだ。
 エンジンを掛けて、車を、走らせた。
 門を出て左に曲がり、春菜さんにこの前教えてもらった、稲村ヶ崎の先に出られる細い裏道を使う。
 運転に自信は無かったが、とにかく、時間が無い。
「俺の実習先の施設に、工藤、武次郎さんっていう人がいたんだ・・・」
 車の中で、唐突に話を始めた。
 だけどばあちゃんは、今だ半信半疑というように、答えた。
「そんな・・・ だけど、同姓同名の人くらい、世の中に何人もいるさ・・・」
「その人は浜松生まれ、板子乗りが上手で、海軍航空隊にいた。これも全部、偶然かい?」
 まくし立てるように、そう言った。
「だけど武次郎さんは、特攻で死んだんだ。生きているわけは、無いよ・・・」
 この期に及んで、全てを否定するように、そう言った。
「じいちゃんは、エンジンをやられて、海面に不時着したんだ。生きてたんだよ」
「だって・・・ だったらどうして、あたしに会いに来てくれなかったんだい・・・ 酷過ぎやしないかい? あたしを六十年も苦しめて・・・」
「そんなこと、俺だって分からないよ! 何もかも、分からない! 今自分がやってる事が正しいのかも分からないんだ! 不安で、仕方がないんだよ! だけどもう、時間がないんだ、考えてる時間が、ないんだよ!」
 そう叫んで、不安でいっぱいになって、涙が出そうになった。
 車は、もう少しで国道134号に出られるところまで来ていた。
 焦っていた。
 稲村ガ崎駅の近くの、車一台通るのがやっとという細い路地を走っていた。
 対向車が来たら、終わりだ。
 こんな道で、すれ違いなど出来ない。
 対向車が来ない事を祈りながら、アクセルを踏んだ。
 しかし見通しの悪いカーブに差し掛かった時、カーブミラーに対向車のライトが光るのが見えた。
 絶望感が、にじり寄って来た。よりによって、一番狭いカーブだ。
 掌に、いっぺんに汗が滲み出るのを感じた。
「賢ちゃん、あそこだよ!」
 ばあちゃんが、目の前にある小さな商店の、かすかな路肩を指差してそう叫んだ。
 俺は慌ててハンドルを切って、その細い路肩に車を寄せた。俺にしては、上出来だ。
 対向車はお礼の短いクラクションを一回鳴らし、スムーズに後方に抜けて行った。
 ホッと胸を、撫でおろした。
 俺は急いで、路肩から車を出そうとした。
 しかし次の瞬間、「ガコン!」と鈍い音がして、大きくつんのめるように傾いて、車が止まった。
 一瞬、何が起こったのか、理解が出来なかった。
 俺はアクセルをあおるように何度も踏むが、エンジンが唸りを上げ、後輪がキュルキュルと空転する音が響き、前に進まない。
 恐る恐る、車から降りた。
 振り向いて車の姿勢を見た瞬間、絶望感の大波が打ち寄せた。
 左前輪は完全に側溝に落ち、右後輪は浮き上がる寸前だった。
 とても自力脱出できる状態には、見えなかった。
 一瞬にして、思考回路が、ぶっ飛んだ。
 俺は後ろの席から車椅子を引きずり降ろすと、助手席からおばあちゃんを抱きかかえて、車椅子に乗せた。
「・・・賢ちゃん、どうする気だい?」
 戸惑うばあちゃんに、「いいから、黙っててくれ」と乱暴に言うと、後席にあったブランケットを引っ張り出し、ばあちゃんの肩から膝に掛けて、車椅子を押して走り出した。
 すぐに、国道134号線に出た。
 真夜中の海を左に見ながら、七里ヶ浜を目指して、走った。
 もう、躊躇などしている時間は、なかった。
 走った。とにかく走った。
 やけに綺麗な満月が、海にキラキラと光を反射させて、こっちを見ていた。
 アスファルトの振動が、車椅子を押す両手に響いて、痺れてくる。
 ばあちゃんの痩せ細った肩も小刻みに揺らし、苦しめる。
 押して走る俺も、車椅子に揺られるおばあちゃんも、もう限界かと思った瞬間、海岸の丘の上に、施設が闇の中から浮かび上がった。もう、一踏ん張りだ。
 麓から、施設を見上げた。
 入り口は、この急坂の上だ。
 一瞬、躊躇した。
 しかし、もう時間は無い。
「うお~!」
 俺は一度、そう雄叫びを上げると、全身の力を振り絞って、坂を駆け上がった。
 もうこれで、心臓が破裂してしまっても良いとさえ、思った。
 何も考えず、がむしゃらに駆け上がった。
 汗が容赦なく、滝のように流れ落ちた。
 目に染みて、それが汗なのか、涙なのか、分からなかった。
 俺の心臓の鼓動が途切れる前に、辛うじて施設の門をくぐる事が出来た。
 玄関は、目の前だ。
 玄関には、夜間非常用チャイムが付いていて、宿直者に通じるようになっている。
 宿直者は、特養の夜勤者ではなく、事務員が交代で宿直し、夜間の家族などからの緊急の電話や外来に対応している。
 玄関にたどり着くと、俺は非常時用チャイムを、押しまくった。
 宿直者が驚いて出てきて、内側からガラス張りの自動ドアの鍵を開け、スイッチを入れた。
「あれ? 君は実習で来ていた子だよね? こんな時間に、どうしたんだい?」
 ドアが開くと、そう言って、汗だくで必死の形相の俺と、車椅子の上でぐったりしたばあちゃんを、怪訝そうな表情で交互にじろじろと眺めた。
「済みません。今は、説明している暇が無いんです。とにかく、入れてください!」
 まどろっこしくて、説明なんて出来る状態じゃなかった。
 俺は当直者の脇をすり抜けるように車椅子を押して入って、玄関前ロビーを左に曲がった。目の前が、エレベーターだ。
 スイッチを押すと、すぐに扉が開いた。
 飛び乗って、三階のスイッチを押す。
 エレベーターが、やたらに遅く感じる。
 息を整えながら、額に滲んだ汗を拭いた。
 ばあちゃんは、しばらく喋っていない。
 心配になって顔を覗きこむと、苦痛に耐えるような表情で、大きく息をしていた。
 エレベーターが、開いた。
 出て、目の前の集会フロアを右に曲がり、医務室の向かいが、静養室だ。
 フロアはやけに、静かだった。
 ケアワーカールームに明かりは点いているが、戸も閉まり、中には誰も居ない。
 内線を知らせる電話の音が、かすかに聞こえていた。
 静養室の扉は開き、中から明かりが、眩しく見えた。
「ばあちゃん、頑張れ・・・ じいちゃんは、武次郎さんは、あそこに居るよ・・・」
 目の前だった。
 俺は眩しい明かりの中に飛び込むように、部屋に入って行った。
「藤原くん!」
 入ると、春菜さんが振り向いて、そう叫んだ。
 じいちゃんのベッド脇に立っていた看護師とドクターも、驚いて振り向いた。
 同時に、俺は叫んだ。
「工藤さん! 千代子さんだよ! ばあちゃん! 武次郎さんだよ!」
 看護師とドクターの間を割って入るようにして、ベッド脇に、ばあちゃんの車椅子を着けた。
 ばあちゃんは、全身を震わせながら、力なく辛うじて立ち上がると、じいちゃんの顔を、覗きこんだ。
「・・・武次郎さん、なの・・・?」
 震える声でそう言うと、涙を浮かべた愛おしそうな瞳で、じいちゃんの顔を、まじまじと眺めた。
「武次郎さんだ・・・ 確かに、武次郎さんだよ・・・」
 そう言って、震える両手で、恐る恐るじいちゃんの頬を覆った。
 見る見る、ばあちゃんの瞳から涙が溢れ出し、白いシーツの上に、零れ落ちた。
「会いたかった・・・ ずっと会いたかったんだよ・・・ 死ぬほど会いたかったんだよ・・・ 武次郎さん! 武次郎さん!」
 じいちゃんの体を抱き締めて、身体を震わせ、ばあちゃんは狂ったように、泣き崩れた。何度も、何度も、じいちゃんの名前を、叫んだ。
 六十年の思いを全部出吐き出すように、号泣を続けた。
 だけどじいちゃんの体は、ピクリとも動かなかった。
 ばあちゃんの声に応える事は、無かった。
 春菜さんは、俯いて、呟いた。
「ほんのちょっと前に、息を、引き取られたわ・・・」
 その言葉に、心臓が、止まりそうになった。
「え?」
 俺が春菜さんに振り返ってそう叫んだのとほぼ同時に、急にばあちゃんの嗚咽が、聞こえなくなった。
 すぐに、顔を戻した。
 同時にばあちゃんは体勢を崩して、ベット脇に崩れ落ち、隣に居た看護師とドクターが、辛うじて体を支えた。
 看護師が、叫んだ。
「斎藤さん! 救急車を呼んで!」
 春菜さんが、「はい!」と言って、部屋から出て行った。
 俺は、固まった。
 頭が混乱して、何をどうしたら良いのか、分からなくなった。
 全てが、真っ白だった。
 急に辺りが静かになって、耳鳴りがした。
 何だか俺まで、意識が遠のいていくような気分になった。
 ただ立っているのが、やっとだった。