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第四章 波乗りの想い 1話

「賢ちゃん、あんたこの前連れ合いに振られたばかりじゃなかったかい? なのにもういい人が出来ちまったのかい?」
 まったく、このくそババアは、朝っぱらから碌な事を言わない。車を貸してくれと頼んだだけで、人の気持ちを逆撫でするような詮索をしやがって・・・
 勢いで、「まあね」と答えてやった。
 それにしても、俺は朝っぱらから浮かれ飛んでいた。心躍らせていた。
 心が躍るなんて、なんだか能天気でアホみたいな表現だが、恥しい話し、正直踊りだしたいくらいの気持ちだった。
 なぜなら今日は、春菜さんと海に入る日だからだ。こんな夢のような話はない。
 夕方まではまだまだだが、早起きした俺は既にそわそわ落ち着かない。時間を持て余し、ついつい余計なことを考えて、見栄を張りたくなった。
 春菜さんが来るまでの間、久しぶりに自分のボードで波乗りをして待っていようと考えたのだ。待ち合わせの時間になったら海から上がって、濡れたウェットスーツ姿で脇にボードを抱えて「今、ちょうど海から上がってきたところなんですよ」なんて言ってみたりして、いろいろなシチュエーションを想像して、一人でニヤニヤしていた。どうしたらカッコよく、大人の女性の雰囲気を醸し出す春菜さんと不釣合いじゃない男を演出出来るか、策略を巡らしていたのだ。
 こんな事を考えるくらいだから、俺の脳みそは既に、春菜さんにそうとうやられちまっていたんだろう。まったく、ばあちゃんがあんなふうに言いたくなるのも、分かる気がする。
 いろいろ策略を巡らせていて、悩みのタネは、七里ガ浜までの足だった。
 普通に、電車で行くか? だがロングボードと板子を持って電車に乗るのは厄介だし、ウェットを着て電車に乗るわけにはいかないから、こんな近くの海に入るのに、わざわざ着替えも持っていかなければならない。かなりの大荷物で電車に乗る事になる。即座に、却下だ。
 では、いつものように自転車で行くか? これならウェットを着たまま行けるし、いかにも玄人ローカルサーファーと言う感じで、サマになる。
 しかし今回は、ロングボードと板子を持っていかなければならない。ただでさえロングボードを自転車に積むのは無理があるのに、更に片手に板子を抱えて走るのは、自殺行為としか言えない。途中で事故でも起こしても、誰も恨めない。これも、却下だ。
 やはりここは最もポピュラーなアイテム、車を使いたいところだ。
 俺は一応、普通免許を持っている。しかし、車を持っていない。
 レンタカーでも借りる事も考えたが、九フィート以上あるロングボードを持って行くには、ワンボックスかワゴンでも借りる必要がある。しかしレンタカーのワゴン車など、まるで営業に使う商用車みたいな野暮なものしかなさそうだし、学生の俺にそんなでかい車を一日借りる金などない。しかもレンタカーの「わ」ナンバーは、見る人が見れば、すぐに分かる。「イケてない」こと、極まりない。むしろ歩いて行った方が、まだましだ。却下としか、言いようが無い。
 つまり・・・ 考えれば考えるほど、俺には一つの選択肢しか残っていない現実が突きつけられる。そう、ばあちゃんのビートルを、借りるしかないのだ。
 昔、兄貴がボードを積むために買ってきたルーフキャリアが車庫の奥に置きっ放してあるから、それを付ければボードも詰めるし、何より、金が一切掛からない。シートもビニール製だから、最悪ウェットのまま乗っても、帰ってからよく洗浄すれば大丈夫だろう。何しろフォルクスワーゲンのマニアでも見ればよだれをたらすほどの素晴らしいコンディションのクラシックビートルに、ルーフにはビンテージウッディーボード。まるで七十年代のアメリカ西海岸か、ハワイオアフ島のノースショアでも絵に描いたような出で立ちだ。正に、今日の俺のために誂えたような状態ではないか。
 最高の条件に思えるが、しかし実は、大きな問題が一つある。
 俺はこの車を、まともに運転したことが無い・・・ この上なく苦手なのだ。
 何しろこいつは年代物で、普通の車じゃない。今まで敬遠して乗らなかったのには、ちゃんとした訳があるのだ。
 傍から見れば、ビートル(カブトムシ)と愛称の付く可愛らしい独特のスタイルも、いざ運転席に座れば、小さい窓と出っ張ったフェンダーが相まって、見切りはすこぶる悪く、パワーステアリングなんて付いていないから、ハンドル操作も重い。鎌倉の細い路地に入り込んだ日には、一か八かの大博打でハンドルを操作しなければならない。更にペダル類が日本車とは逆に床から生えてやがるから、いちいち操作がやりにくい。しかもコイツは一応オートマチック車に分類されるはずなのだが、スポルトマチックとか言う独特の変速機で、教習所で習った車とは、操作がぜんぜん違う。とにかく、一般人の乗り物ではないのだ。
 借りるとなると、午後までにばあちゃんにこの曲がり物の運転を習って、ある程度扱えるようにならなければならない。ただでさえ、車の運転は苦手だ。しかもばあちゃんに教えてもらうなど、極めて屈辱的だ・・・
 しかし、背に腹は変えられない。ここは長年の封印を、解かねばなるまい。
「車を貸してもらいたいだけじゃなくて、運転も教えて欲しいんだけど・・・」
 しおらしくそう言った俺に、ばあちゃんはにやにやしながら返した。
「ほう、いい人が出来ると、男は変わるもんだね。あんなに運転しないって言い張っていたのに」
 返す言葉も無く、しょげた俺を見て、ばあちゃんは高笑いをした。
「ハハハ、冗談だよ。最近の若いもんは、言われ弱いねぇ」
 そして優しい笑顔になって「賢ちゃんが乗ってくれるなら、あたしゃ嬉しいくらいだよ。さあ、ぼさっと突っ立てないで準備しな。早速いくよ!」
 ばあちゃんは車椅子の向きをくるっと変えると、「腕が鳴るねぇ」と呟いて、支度をするために部屋に入っていった。
 部屋から出てきたばあちゃんの車椅子を車庫まで押すと、入り口の前に着けた。
 ばあちゃんは車庫の壁と車に掴まりながら、ゆっくりと運転席のドアの前に立つと、鍵穴にキーを挿し、ドアノブのボタンを押した。
 ガチッと重量感のある音がして、ドアが開く。
 ばあちゃんは運転席に座ると、イグニッションにキーを挿す。キコッと一度アクセルペダルを空踏みした音がしたかと思うと、ためらわずスターターを回した。
 キュルキュル、キュルキュル、っとセルモーターが回る音を二回繰り返しただけで、エンジンはすぐにブルン!と威勢良く目を覚ました。流石に、整備は良く行き届いている。
 ばあちゃんは小柄で、運転席に座ってしまうと体がほとんど見えない。フロントガラスからぎりぎり目から上だけを覗かせて、まるで無人の車が走り出したように車庫から出してきた。
「エンジンを暖めるから、ちょっと待ってな。久しぶりに掛けたから、オイルもしっかり廻さなきゃね」
 ドアを開け、出てきたばあちゃんがそう言った。俺はあわてて、車椅子を運転席の横に着ける。
 バサバサバサ・・・
 空冷水平対向エンジン独特の、歯切れよい渇いた音を立てて、快適にアイドリングを刻む。ばあちゃんはこの音が大好きで、何も分からない俺に、よく語りを入れていた。
 俺は車椅子を助手席の前まで押して、ドアを開ける。ばあちゃんをそこへ座らせると、車椅子を車庫の中へ入れて、運転席に乗り込んだ。
 車内にこだまするエンジンの音と、なんとなく漂う気化ガソリンか排気ガスの旧車特有の臭いが、懐かしさを感じさせる。久しぶりにシャバの空気に触れて喜んでいるかのように、エンジンの鼓動に合わせて、車体を小刻みに震わす。
 ここに座ったのは、何年ぶりだろう。確か免許を取ってすぐに、一度だけ今日みたいにばあちゃんに教えてもらおうと、乗ったことがある。だけどあの時はすぐに恐れをなして、放棄した。以来、乗っていなかった。
「とりあえず、昔教えた要領で、通りまで出しな。憶えているかい?」
 いきなりのばあちゃんの言葉に、恐る恐る「うん、なんとなく・・・」と答える。
「後は走りながら教えてやるよ」
 相変わらず、ばあちゃんのやり方は乱暴だ。
 俺はギアを入れると、恐る恐るアクセルを踏み込む。ハンドルを握る手に、ジットリと汗が滲む。車はギクシャクしながらも、辛うじて進み始めた。
「この車はクラッチペダルは付いていないけど、国産のオートマチックと違って、走り出したら自分で変速しなきゃいけないんだからね。まずは一速で走り出す。さっき賢ちゃんはこのLの方で走り出したから、何だかギクシャクしたんだよ。これは急坂を登るときくらいしか使わないからね。ほら、信号が青になったよ、ギヤを一速にいれて! 早く走り出しな!」
 なんとか大通りまで出して、信号待ちをしていた俺に、ばあちゃんが矢継ぎ早に指示を出す。あわててギヤを一速に入れて、アクセルを踏む。
「ほれ、なにボケッとしてんだよ! 次は二速に入れるんだよ! あ、馬鹿! ギヤを入れるときは一度アクセルを戻すんだ! 何度も言ってるじゃないか、まったく賢ちゃんは覚えが悪いね!」
 まったく・・・ 車椅子で生活する老人に、車の運転を習うなんて・・・ しかも、こんなに怒鳴られながら・・・ こんな小さな体で、このエネルギーとバイタリティーは、いったい何処から湧いて来るんだか。こりゃとうぶん、お迎えは来なそうだ。
 
 午後、ビートルにルーフキャリアを付けて、ボードを括り付けた。板子と荷物は、後部座席に放り込む。
 少し離れて、車を眺めた。兄貴も時々、この出で立ちで海に出かけていたのを思い出す。ローカルなら自転車か徒歩で行ったが、千葉や静岡辺りに遠征する時は、いつもこうだった。
 帰るとどんなに遅くても「潮が掛かると錆びるから、念入りに洗車をするんだよ」とばあちゃんに口うるさく言われて、俺はその洗車を無理やり手伝わされて、半べそを掻いてたっけ。兄貴が十八~九の頃だから、もう十年以上も前の話になる。懐かしい思い出が、蘇る。
 車に乗り込むと、エンジンを掛けた。
 確かにばあちゃんが言うように、この車は最近の車には消えてしまった、内燃機関特有の息吹を全身に感じさせてくれる。まるで心臓でも動いているようなエンジンの鼓動と音が、クラシカルな鉄板むき出しの室内と相まって、乗るだけでノスタルジーの世界へと誘ってくれる。運転さえしなければ、なんと心地よい。この懐古主義的乗り物に陶酔してしまう輩がいるのも、納得してしまう。
 家を出て、路地を左に進む。右に行けば海岸はすぐだが、そちらは車一台通るのがやっとの細い路地がしばらく続く。そんな所を運転する自信はない。対向車でも来た時には、車を捨てて逃げ出したくなる。遠回りになるが、出来るだけ大きな通りで海岸に出ることにした。
 すぐに、長谷寺の前の交差点に出る。真っ直ぐ進めば、長谷の大仏だ。右に曲がって、若宮大路を目指す。しばらく渋滞に並び、江ノ電の踏み切りを渡れば、若宮大路の下馬の十字路だ。左に曲がれば、鶴岡八幡宮。反対の右に曲がって真っ直ぐ進むと、由比ガ浜の目の前。国道一三四号線とのT字路に突き当たる。そこを右折して真っ直ぐ行けば、七里ガ浜だ。
 土曜日の午後なだけあって、道路は何処も混雑気味だ。七里ガ浜の駐車場に着いたのは、二時過ぎだった。
 広大な駐車場ではあるが、ここもやはりかなりの混雑を見せている。停められる場所があるか、心配になる。結局待ち合わせのファーストフード店からかなり離れた場所にぎりぎり残っていた場所を見つけて、覚束ない手付きで辛うじて車を入れた。それにしても、せっかく策略を巡らせてわざわざ車で来たというのに、これではまったく意味が無い・・・
 
 車から降りると、まずは波の状態を確認した。
 風は弱く、波の高さは、遅くまったりとした厚めのものが多い。波は気象や気温、時間でリアルタイムに姿を変えるから、春菜さんが来るまでにどうなっているかは分からないが、今の状態のまま夕方に海よりの風が吹いてくれれば、わりと良い形で掘れてくれるか。あとは浜に降りてからその都度ポイントを探して行くしかない。
 俺は早速ボードを車から降ろし、砂浜に降りてみることにした。
 振り返れば、国道一三四号線と江ノ電の線路の向こうの斜面に、「海の見える丘」が見える。良く目を凝らせば、ロビーで寛ぐお年寄りの姿が見えるんじゃないかとさえ思える。春菜さんは今頃、あそこで頑張って、働いているんだ。見ているはずも無いのに、何だか意識してしまう。自意識過剰な自分に、恥かしくなる。背中を気にしながら、海に入って行った。